経済・政治・国際

2018年5月18日 (金)

親の顔が見てみたいものだ

安倍政権の屋台骨となっている麻生太郎財務相(副総理)の度重なる失言や放言が、政権のリスク要因となっている。野党側から早期辞任要求が強まるなか、歯に衣着せぬ物言いを「麻生節」などと持ち上げてきた自民党内からも懸念の声が噴き出し始めた。
5月15日の閣議後会見。麻生氏は「財務大臣としても個人としても、セクハラ行為を認定したと考えて頂いて差しつかえない」と述べた。個人としてはセクハラを認定できないとした11日の衆院財務金融委員会での発言を修正した格好だ。14日の衆院予算委員会では、セクハラ問題が先月12日に発覚してから初めて公の場で被害者への謝罪を口にした。しかし、国民民主党の玉木雄一郎共同代表の質問中、自らに直接関係ない内容なのに自席からヤジを飛ばし、紛糾させた。3月に財務省による公文書改ざんが明らかになって以降、国税庁長官に続き、セクハラ問題で事務次官も辞任した。それなのにトップである麻生氏は失言や放言と受け取られる発言を繰り返し、国会で追及を受ける場面が目立っている。自民党執行部の一人は「火消ししようとして、火に油を注いでいる」と指摘。麻生派の幹部も「これまでは『麻生流』でかわしてこられたが、今回は心配だ。発言が世間の常識からずれ過ぎている」と頭を抱える。(朝日新聞:5月16日)


麻生太郎について考える。


麻生は、吉田茂の孫で、麻生太賀吉の子であること、つまり家柄の良さをアイデンティティとする政治家である。これを表に出しているのが、服装の選び方にある。逆に、露悪的とも取れる部分、つまり、必要以上に庶民的を装うのが、がらっぱちともとれる発言である。これは、こんなに良い家柄の育ちなのに、外れた生き方をしているのだと、これをカッコイイことだと信じているのだが、この辺りが浅はかであるし、がらっぱちが不徹底で見苦しく見えてしまうのである。学問がすべてを教えるものではないが、学問を軽んじるとこうなるのだなという見本にはなっている。
学ぶのはゴルゴ13からくらいだと悪口を言うのは簡単だが、もちろんそんなこともないだろう。新聞も本も読まないだろうが、解説してくれる秘書や側近はあるだろうし、役職として付いてくる役人も沢山いる。無知無学を嘆く必要もない立場にある。それでも、派閥の幹部が、麻生の失言、放言を「常識からずれ過ぎ」を嘆く先には、常識を役人が教えてはくれないということに行き着くよりないのである。

政治からしからぬ発言が、自由奔放ですごいと言われることは、案外少ない気がする。社会情勢の変化もあるのだろうが、自由奔放というより、ただ無知なだけに思える発言だからである。ヤジを飛ばすのは、権力を批判する側の行為、つまり、他に手段の無い側がやるから、意味があるというか、仕方ないよねと国民に映るのに、権力者がヤジを飛ばせば、他に幾らも方法があるのにと思うものである。ここら辺りの無知さかげんは、安倍晋三と共通する。同病相憐れむと呼ぶと、本人たちは病気でないと否定されるかもしれない。
独特な価値観は、なかなか理解が難しい。市井の者からすれば、躾がなっていないという状態である。古くから使われる言葉に、親の顔が見てみたいというのがある。辞書に載せて良い位に代表的な例だと思う。


失言は言ってはいけないこと、放言は好き勝手なこと、を言うこと。方言と理解するよりない。

2018年5月15日 (火)

連帯できぬ中東諸国 米大使館エルサレム移転に温度差

トランプ米政権による在イスラエル大使館の移転問題で、イスラエルを国家承認していないイランなどが批判を強めている。中東諸国は、イスラム教の聖地でもあるエルサレムをめぐってはパレスチナ寄りの姿勢を貫く。しかし、米国と蜜月関係にあるサウジアラビアや援助を仰ぐエジプトなどは強硬姿勢をとれず、連帯できないでいるのが実情だ。
シーア派大国イランのエブテカール副大統領は5月14日、朝日新聞の取材に「(米国のような)超大国であっても、力を持って好きなことをするのは許されない。パレスチナの問題は、こういった超大国の横暴の象徴となっている。パレスチナでは罪のない人が犠牲になっており、国際的な取り組みが必要だ」と述べ、米国やイスラエルの姿勢を強く批判した。エルサレムの首都宣言を非難してきたトルコのエルドアン大統領は13日の声明で「国際法の原則を無視するものだ」と批判。その上で、「トルコはパレスチナの同胞を支持し、決して孤立させることはない」とした。ヨルダンやレバノンも14日、相次いで米大使館の移転を非難した。一方、エジプトは米国への直接的な批判は避けつつ「パレスチナが東エルサレムを首都とする国家を樹立する権利を支持する」とした。(朝日新聞:5月15日)


エルサレムについて考える。


エルサレムといえば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の聖地である。ユダヤ教のイスラエルが首都を主張したい気持ちは、極東の島国の非ユダヤ教徒であっても理解できる。同様に、イスラム教のパレスチナが首都にしたいと思ったとしても、心情的には同意するのである。仮に、中東でキリスト教人口の多いレバノンが、エルサレムに野心を抱いたとしても、指示はしないがなるほどとは思う。最後のはないと思う。理由は、レバノンが経済的に安定しているからという乏しいものである。政治の安定性が失われれば、イスラエルとの小競合いが拡大することは否定し得ない。
トランプが大使館を移す、つまり、首都の認識を変更するというのは、大統領選挙に立候補したときの公約であるからだが、この時期に踏み込んだのは、中間選挙目当てのものなのだろう。トランプの支持率は三割程度まで下がっても、それ以上には下がらないという米国の病理をまざまざと見えている。こんなものは病気でもないと主張しそうだし、国の代表が発言したらミサイルの何本か飛んできそうな国ではある。それでも、選挙によって正当な手続きを踏んだ代表であるからと、これだけが拠り所になっているのだから、自身の選挙と同様に、議員選挙にも勝たなければならないということになる。彼の国においても、政治家は選挙命ということだ。
宗教絡みの案件であるから、親米の国でも気軽に賛成という訳にはいかない。宗教色が極端に薄い日本でも思案するような状況だから、他の国は推して然るべきところである。他人のデリケートな部分にズカズカと立ち入るのが、ユニークな大統領の手法になっている。これを頼もしいと思う人もいるだろう。少々人種差別の臭いをさせながら、差別的な思想を有する人の支援を確実なものにするというのも、ユニークというより残念な方法である。分かりやすさを最大に尊重するから、オバマのやったことは全て間違っているということから開始する。これは民主党政策批判の体を装っているものの、本当の所は差別的な思想を刺激するのが狙いなのだろう。彼自身の思想は分からないが、政治利用しているのは間違いない。
ルールに書いてないから良いという発想は、近代合成国家ならではの思想ではある。不文律は成文律に優先するのが、人類の歴史というものであるが、人口国家の歴史が200年少々というところでは、思想が定着するには短い時間であるといえる。宗教も王様も居なかった場所に、国家があるのだから、根っ子は文明に求めるしかない。こういう国だから、知性を拠り所に求めて、イルカを殺すなとか、クジラを食うなと叫ぶのが正義になる。極東の島国なら、道端に咲く名の知らぬ野草まで、命の連続性に疑問を抱かずに受け入れるだろうから、知性の切れ目をどこかに入れるのは、科学的な必要性を除けば、個人が生きることと無関係な存在に思えることだろう。まあ、深く考えずに、新大陸の中間選挙のキャンペーンを中東で行っていると単純に理解すれば良いのだろう。迷惑な話ではある。


エルサレムを中国に任せたら、というのは、もっと恐ろしいことになりそうだ。

2018年5月10日 (木)

結婚披露宴で「子は3人以上」=自民・加藤氏、謝罪し撤回

自民党の加藤寛治衆院議員(長崎2区、当選3回)は5月10日の細田派の会合で、結婚披露宴に出席した際は「必ず3人以上の子どもを産み育てていただきたい」と呼び掛けていると紹介した。出席者から「セクハラと言われる」といさめる声も上がった。
加藤氏は会合の直後、記者団に発言を撤回しない考えを示したが、その後、「誤解を与えたことをおわびする。決して女性を蔑視しているわけではないが、そのようにとられてしまう発言だったので撤回する」とのコメントを出した。加藤氏は会合で、披露宴では若い女性に対し、「結婚しなければ子どもが生まれないから、人さまの子どもの税金で(運営される)老人ホームに行くことになる」と説いているとも説明した。(時事通信:5月10日)


セクハラ発言について考える。


好意的に加藤の発言を解釈しよう。結婚して子供が生まれれば、自分の子供が老後の面倒を見ることになる。幸せな話である。子供は一人で充分な気がするが、一人だと相手の親の面倒も見ることになり負担になる。何と行き届いた配慮だろう。兄弟二人どうしの結婚なら、外に頼まなくて良い。それを三人と主張するのは、社会に貢献するようにせよということだ。他人の面倒を見られる状況を構築するということだ。なるほど、自民党支持者が社会を支えるという訳だ。素晴らしい社会が実現しそうである。
どうにも好意的に書けないのは困ったものである。結婚して、子供が生まれて、子供が育って、やがて親が歳を取ったら面倒をみるというのは、大多数とは言わないまでも、多くの家族で程度の分析を横に置けば成立している流れであろう。とは言っても、2016年の婚姻件数は62万1000件で、離婚件数は21万7000件であったことからすれば、離婚しないとは言えない。再婚する場合もあるから、複雑になるが、1/3が離婚すると計算するなら、2/3は離婚しないと読める。そもそも結婚しなければ離婚もしない。
話が逸れそうなので戻す。個人より国家が尊いという思想があるから、国家の反映の為には子供が必要で、ついては女性を子供を生産する道具であるという論理である。古い思想のように扱われるが、女性の人権が尊重される以前の思想ではあるが、実際のところは明治の富国強兵あたりまでしかさかのぼれないものである。そもそも国という考えがこの国で、現在の様な意味rで出現するのは近代になってからである。伝統的な価値観などと、さも重みがあることのように語る右翼政治家は、学びが不足している。右だろうと左だろうと、学ばぬ者に価値などないと、切り捨ててしまう。

記事に戻る。加藤は誤解を与えたことをおわびするとしているが、誤解は与えていない。加藤の産まなければ価値が無いという価値観に従った発言ブレはない。だからもし加えるなら、少数の人達には受け入れ難い部分があるだろうが、加藤の支持者からすれば大多数が賛同するものだという話である。加藤が少数と見做す人達が、多いか少ないかは別にして、誤解せずに理解しているから不快と主張するのである。
今日、国家権力が子供を産むという私的な行為に、どんな方法であれ口出しするのは憚られるものである。立法府に属していれば一定の権限があり、与党に所属していれば行政権への強い支配が期待される。もし自信の思想を広く受け入れられるようにしたいと考えるのなら、加藤の選ぶべき行動は、子供を産み育てる環境整備を推進することである。


愚かさは、発言より、その周辺にゴゴゴロしている。

2018年5月 9日 (水)

カシオ、デジカメ撤退を発表 スマホ台頭で

カシオ計算機は5月9日、コンパクトデジカメ事業から撤退すると正式発表した。スマートフォン(スマホ)の普及でデジカメの販売低迷が続いており、2018年3月期のデジカメ事業は2期連続の赤字となった。スマホのカメラ機能が高機能化し、デジカメ単体での回復は難しいと判断した。
「急激に売り上げが落ち込み、これ以上続けても増収は見込めない」。樫尾和宏社長は同日、都内で開いた決算会見でこう話した。消費者向けコンパクトデジカメの生産は外部に委託しており工場の閉鎖などはないが、事業撤退費などの特別損失を計上した。18年3月期のデジカメ事業の売上高は前の期比34%減の123億円、最終赤字は5億円から49億円に膨らんだ。一般消費者向けのデジカメは撤退するが、スポーツ用など業務用デジカメの開発は継続し、カメラ技術を生かした新たな事業の創出を目指す。
カシオは1995年に一般消費者向けで世界で初めて液晶モニター付きデジカメ「QV-10」を発売。その後も最薄サイズや1秒60コマの最速撮影といった独自製品を売り出してきた。樫尾社長は「新しいデジカメを提案してきた自負がある。今後も新しい領域の製品を必ず生み出すと約束する」と強調した。カシオは17年にデジカメと楽器など3つの事業部門を統合し開発資源を集約しており、各部門の要素技術を掛け合わせた新製品を生み出して成長を目指す。デジカメ市場はスマホの台頭で大幅な縮小が続いている。13年度に全世界で190万台弱だったカシオのデジカメの出荷台数も16年度に67万台まで急減して5億円の赤字になった。17年度は出荷増を狙っていたが、中国で販売が好調だった自撮り機能などが特長の製品もスマホの高機能化で急速に販売が減少。最終的に55万台まで落ち込み赤字が49億円まで増えた。(日本経済新聞:5月9日)


デジタルカメラについて考える。


一般社団法人カメラ映像機器工業会(CIPA)が公表している統計で、フィルム(銀塩)カメラが無くなったのは2000年より前であったと記憶する。つまり何時だか分からない。カシオがQV-10を発表した頃は、デジタルカメラというのは、ポラロイドなどのインスタントフィルム市場の置き換え程度のものと認識だったろう。銀塩カメラに画質が追いつくには1000万画素が必要だと計算され、遠い未来の話と感じたものであった。これにはセンサーが必要なのはもちろんであるが、DRAMメモリも記憶媒体も大きな容量が求められるからである。現在の感覚で、過去を語ってはならない。
CIPAの統計で、コンパクトタイプのデジタルカメラの出荷金額をまとめた。結果を下に示す。
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2008年まで順調に成長したものが、坂を転げ落ちるように減少している。スマートフォンの影響と語るのが楽ちんな解説であるのだが、その前の携帯電話にカメラが付いたあたりから、影響は出ていたと思われる。もっとも常識的な解釈としては、1990年頃から急速に普及したレンズ付きフィルムの市場を、カメラ付き携帯電話とコンパクトデジカメが置き換えたというところだろう。2010年以降はスマートフォンで良かろう。

一度、1兆円産業に発展したものを、1000億円で採算を取るようにするのは極めて難しい。1兆円の時に、この市場規模に合わせた工場や、技術開発の投資や、販売ネットワークの整備をしたのだから、1/10になっても少し削れば大丈夫という訳にはいかない。1/3になった2013年頃は、コンパクトタイプの高性能化による差別化で、安売り競争をしないと主張する会社が幾つもあったが、どこも上手くいかなかった。高性能なモデルは沢山売れないから、過去に関係していた人達を維持できなくなる。表向き高性能と言いつつ、安売りに走る体質は抜けない。
一眼レフタイプの市場拡大は期待した程ではないようだ。受光素子が小型・高性能化しているとカメラという機能は小さくなる。それでも記憶媒体と電池は必要だから限度はある。行き着くところは、電池と記憶媒体と通信機器をパッケージに持つスマートフォンにくっつくのが相性が良い。ということは、新しい課題が見えない限りは、衰退以外にないということになる。


レンズや光学ガラス会社も悲惨な状態のようだ。

2017年12月18日 (月)

日本、キャッシュレス化に遅れ 韓国は9割

世界ではキャッシュレス化が進んでいる。ニッセイ基礎研究所の調べでは、韓国は民間消費支出に占めるカード決済の比率が約9割。シンガポールなども5割を超える。日本でもキャッシュレス化は拡大しつつあるが、なお約2割と海外に比べて遅れている。
日本人がキャッシュ好きなのは「長引くデフレや、清貧を良しとする国民性も一因」(ニッセイ基礎研の福本勇樹氏)という。実際、世の中に出回る1万円札は増え続けている。9月末の発行残高は約93兆円で、半期として過去最高だ。博報堂生活総合研究所が日本国内で実施したアンケート調査では、キャッシュレス社会に「賛成」と答えたのは49%で、「反対」は51%。賛否が真っ二つに分かれている。同調査では女性の62%がキャッシュレス社会に「反対」。「浪費しそう」「お金のありがたみがなくなりそう」などの意見が多いという。男性も41%が反対する。「暗証番号や個人情報が流出して、犯罪が起きる可能性がある」との懸念が根強いためだ。キャッシュレス社会は経済成長のカギになるとの見方もある。米ビザによると、電子決済の利用が広がるとオンライン通販の拡大などが見込まれ、国内総生産(GDP)を押し上げる効果があるという。(日本経済新聞:12月18日)


キャッシュレスについて考える。


記事では日本でキャッシュレス化が進行しない理由を挙げているが、実は理由は他にあって、キャッシュレス化している国ではニセ札が出回っていて、現金の信頼が低い可能性がある。中国で急速に広まった理由は、ニセ札をつかまされる懸念を排除するのに有効ということもあるだろう。街の屋台でも利用可能であるという。そんな国にならなくてよかったとも思うのだが、近代化が進まない国民性という解釈も可能になる。
多額の現金を持ち歩くのは、治安上からすれば好ましものでもない。しかし、カード決算にしたところで盗難被害が無くなる訳ではない。少額の買い物ならサイン不要のところもある。該当するのは、スーパーやコンビニエンスストアのような店舗で、少額取引に限定ということだ。盗難使用を排除するように、通常利用と異なる状況が生じるとチェックされるとあるが、本当に効果的な監視が成されているかは分からない。この手の情報は公表されることがない。まあ、多くは支払い場所にカメラが設置されているから、一定の予防効果は予定されていると言える。
キャッシュレス社会が経済成長のカギというのを、信用取引を商売にしている米ビザが、電子決済の利用が広がるとオンライン通販の拡大などが見込まれて、GDPを押し上げる効果があると主張しても、我田引水の誹りを免れないだろう。現金取引に限定していては、経済成長に限界を感じるのは否定しないが、その程度の話である。便利なら使うし、危険なら使わないものである。経済成長の為に支払い方法を選択することがないのは確実である。


お金を見たことのない殿様の子供の話があったと思い出した。

2017年12月 1日 (金)

維新・足立氏、「犯罪者」発言を陳謝「深く反省する」

日本維新の会の足立康史衆院議員が11月15日の衆院文部科学委員会で自民党、立憲民主党、希望の党の議員3人を「犯罪者」と述べた問題で、足立氏は12月1日、委員会の理事会で陳謝した。冨岡勉委員長(自民)が明らかにした。与野党は議事録から該当部分を削除することで一致しており、協議を続ける。
冨岡氏によると、足立氏は「私の発言中、議員の名誉を傷つけるような不適切な部分があったことはきわめて遺憾であり、深くおわび申し上げる。深く反省し、二度とこのようなことがないよう十分注意する」と陳謝したという。立憲が衆院に出していた懲罰動議は、同日の議院運営委員会理事会の協議で懲罰が科されない見通しになった。足立氏は加計学園の獣医学部新設をめぐる審議で、一連の問題を追及してきた立憲の福山哲郎幹事長、希望の玉木雄一郎代表が獣医師会から献金を受けていると指摘。国家戦略特区で獣医学部新設を認める条件を閣議決定した当時の地方創生担当相だった自民党の石破茂氏も「何らかの権限がある」として、3人を「犯罪者だと思っている」と述べた。(朝日新聞:12月1日)


毎度おなじみの足立康史について考える。


通産省の役人から、みんなの党、日本維新の会と流れてきた政治家である。創価学会の家庭に生まれたことを、結果的に公表している (選挙の対立によって自らオープンにした) から、門外漢には公明党からの立候補が相応しく思うが、そんなに単純でもないのだろう。そもそも公明党は、この手の目立ちたがり屋を嫌う。宗教政党と言ったら叱られるのだろうが、宗教的なつながりを基本にすると、宗教活動で得たポイントで決まると思って、そんなに外れてはいないだろう。宗教には、布教は重要な活動だから、機関紙を販売するのも、家々を回って勧誘するのも、重要な修行のひとつと言える。これはどんな宗教でも同じだろう。手法と程度に少しの差はあるだろうが。
足立が公明党なら持て余すとして、日本維新の会ならどうかといえば、選挙目当てで集まった烏合の衆である。持て余すも何もない。目立つことは結構な話となる。政党もいろいろと都合がある。しかし、政治家の品位を汚す行動だと見做されれば、処分するよりないということになる。人気命の政党なら、それがより強く出る。国会議員を犯罪者扱いすれば、それは相応の処分が下るものだ。

謝って済ますというのが最初である。それでも、学習しない御仁であろうから、同様の行為を繰り返す。次は謝ってでは済まないが、もう少し重い処分を作り、その次は政党から除名することになるのだろうか。そんな内に選挙になり、落選してタレントになることだろう。毒舌政治評論家になる為の修行中ということと理解しよう。


タレントの席はキャンセル待ちもあふれていることだろう。

2017年11月16日 (木)

パナが高級ミラーレス一眼 10年目の節目に新戦略

パナソニックは11月16日、瞬時のピント合わせと強力な手ぶれ補正で機動性を高めたミラーレス一眼カメラ「G9PRO」を2018年1月25日に国内で発売すると発表した。価格は本体のみで21万円前後(税別)。パナソニックのミラーレスは高品質の動画も撮れる「GH5」が欧州や北米を中心に好調だ。18年はパナソニックがミラーレスの販売をはじめて10年の節目。静止画と動画の「2トップ戦略」で、次の10年のさらなる飛躍を狙う。(日本経済新聞:11月16日)


デジタルカメラについて考える。


カメラのデジタル化により、高級品であったカメラが消費商品へと移ったという話は何度も書いてきた。特にスマートフォンの普及により、カメラ機能の差別化が分かり難くなっているコンパクトデジタルカメラにおいては、商品ラインナップの縮小を余儀なくされている。それで高級一眼レフが売れているのなら、カメラメーカに不満はないのだが、そうもいかない事情がある。大きなカメラをぶら下げているのが、マニア臭が強くて抵抗を感じるということはあるのだろう。この隙間を埋めると、カメラメーカが期待する商品がミラーレス一眼レフである。CIPAが公表している統計で、データがある2012年以降の出荷台数、平均単価を四半期単位でグラフにしたのが下である。
M1
この期間全体の比較で、一眼レフは64.6千台、ミラーレスは28.6千台とミラーレスが少ない。平均単価も、一眼レフで30.1千円、ミラーレスで28.6千円と差が小さい。ミラーレスの位置付けは当初は、小型軽量の一眼レフ廉価版であったものが、廉価版が修正され高性能版に修正されたようだ。動画を扱える部分で、一眼レフとの差別化は可能であろうが、少々スマートフォンとの比較にとらわれ過ぎている気がしないでもない。まあ、コンパクトデジタルカメラの悲惨な状況からすれば、希望の星であることは間違いない。


カメラが沢山売れるのが幻像なのだが。

2017年11月15日 (水)

加計問題、論点深まらず 野党は追及継続へ

11月15日の衆院文部科学委員会の加計学園の獣医学部新設認可を巡る論戦は、問題の論点が深まらないままだった。野党は認可の妥当性についての説明が不十分だと繰り返し追及したが、林芳正文部科学相ら政府側は手続きは適切だったという説明に終始した。論点はなお残るが、野党が衆参両院の代表質問や予算委員会でどこまで具体的に究明できるかは不透明だ。
野党が今後も力を注ぐ方針なのが、今回の認可と「既存の大学・学部では対応困難」など学部新設4条件との整合性だ。政府が当初の原則を曲げ、恣意的に認可したのではないかと問題視する。だが、判断の妥当性を繰り返し強調する政府から、決め手となる答弁を引き出す戦略はみえない。野党側は認可過程の解明に必要だとして、文科省の大学設置・学校法人審議会の議事録を出すよう求めるが、政府側は議事録は作成しないとの立場だ。政府の情報公開姿勢も追及するが、世論に訴える新たな材料にも乏しいのが現状だ。もう1つの焦点と位置付ける安倍晋三首相の関わりも、これまでの論戦では具体的に示せないままだ。学園理事長の加計孝太郎氏は首相の友人。野党は加計氏の参考人招致で、首相に計画を伝えていたのではないかとただす構えだが、実現の見通しはない。仮に招致できたとしても、加計氏が否定した場合に、野党に反論できる材料があるのかは釈然としない。(日本経済新聞:11月15日)


国会審議について考える。


国会議員、特に大臣が、その職務権限を私的に使って、関係者に利益誘導するというのは、古典的な権力の濫用というものである。大学の許認可業務について、国会議員が関係していると疑われた時点で、濫用があったと推定するのは、一定の蓋然性があると信じる。これでは推定無罪の原則が損なわれるという指摘は当たらない。権力者にあるのは、推定有罪原則しかない。理由は単純で、権力は腐敗する、そして、必ず暴走するものである。これが動かせない以上、権力に対する監視は決して緩めてはならないのである。
反論として、権力者を陥れようと、マスコミを操作するものが生じるかもしれないというものがある。今回の問題も、この立場に立って、現政権、もしくは、安倍晋三に対する敵対心による情報操作だとする意見も見掛ける。そうである可能性は否定しない。しかし、安倍晋三の行動は軽率過ぎるし、安倍昭恵に至っては、はしゃいでいるとしか見えない。この夫婦はものを考えるという習慣が幼い頃から無いままに齢を重ねてきたように思える。行動に対する責任は取るというのが大人の作法である。躾のできていない子供には分からないかもしれないから、一縷の望みとして安倍洋子にでもお願いするよりないかもしれない。国難である。拒絶はしまい。

ご高齢の方に負担を掛けるのは忍びない。これらを横に置くとして、大学の認可が妥当なのかを検証するのは、国会の仕事として相応しいものである。地方のボロ大学が、県の資金を当てにして、新規学部を開設するというのなら、大学の運営に関してもう少し点検があって然るべきである。不認可になった大学として、幸福の科学大学というのがある。これはこの国の大学として不適切な大学であると結論するのに同意する。それなら、岡山理科大学はギリギリ妥当だとして、獣医学部として妥当なのかとすれば意見のあるところだろう。鳥インフルエンザなどの問題に関わる公衆衛生について、獣医の必要性が高まっているというのがあった気がする。獣医学科のコースで講義を設定するのが困難な代表例が公衆衛生である。少人数の学科に、専門性が高く、汎用性が乏しい講義を設定するのがどれだけ大変かを想像すると良い。公衆衛生の専門家になるのに、獣医学科のコースが最適でないが、この教育は欠くべからざるものである。国立大学で共同運営がなされている代表的な例である。獣医学に関わる直接的な教育人員が不足していることが原因ではない。
iPS細胞の実用化に向けて動物実験の環境整備が必要だという意見もあった。動物実験について、以前より厳しい管理が求められていることはどこに行ったのだろうか。新薬開発に用いる動物を使用するのに、慎重にならざるを得ない社会環境が発生している。動物実験反対運動は30年前にもあったと記憶するが、ここ十年位においては、毛皮コートに関する反対を欧米有名人がすることで注目が高まっている。iPSだけ特別という訳にもいかないだろう。単純に我が儘だというのは簡単だが、命を救う行為も、広義では同じである。

安倍晋三夫妻が関係したか否かを調査するのは大変だろう。国会の審議で、大学が必要な要件を満たしているのかくらいは明らかにしてもらおう。ロクでも無い大学があっても良いし、おそらく国家試験に合格する者も少ないことと思う。それでも、幸福の科学大学が認可されないのなら、この獣医学部も認可されなくて良いのではないかと思う。この間にどれ程の距離があるのかを示すくらいの責任は、行政機関にあると信じる。


この夫婦が入れる大学を設置基準にするなら、大学教育へのテロ活動だ。

2017年9月28日 (木)

参院選、3.08倍差「合憲」 合区後の一票の格差 最高裁

合区が初めて導入され、「一票の格差」が最大3.08倍だった昨年7月の参院選について、最高裁大法廷(裁判長.寺田逸郎長官)は9月27日、「合憲」と判断した。合区による格差縮小を評価した。その上で、二つの弁護士グループが各地の選挙管理委員会に求めた選挙無効の訴えを退ける判決を言い渡した。
この日の判決は法改正に伴う格差縮小を評価しつつ、再び拡大することがないよう釘を刺した。自民党では、地元の不満が強い合区を改憲によって解消しようとする動きがある。格差が広がる懸念があり、国会の対応が問われる。最高裁が2010年と13年の参院選で連続して「違憲状態」と判断したことを受けて、国会は15年の公職選挙法改正で、鳥取と島根、徳島と高知の合区を含めた「10増10減」を実施。格差は13年の4.77倍から3.08倍に縮小した。この日の判決は「参議院の創設以来初の合区を行い、数十年間にもわたり、5倍前後で推移してきた格差が縮小した」と評価。15年改正の付則に「19年参院選に向けた抜本的な見直し」が明記され、さらなる是正に向けての方向性と立法府の決意が示されたとして、「違憲の問題が生じるほどの著しい不平等状態とは言えない」と、合憲と結論づけた。一方で、判決は選挙制度の仕組みを決める上で、投票価値の平等の要請が後退してもよいとはいえないと指摘。ただ、唯一の基準ではないとも述べ、都道府県の意義や実態などを一つの要素として考慮しても、国会の裁量を超えるとはいえないとの考え方を示した。 裁判官15人のうち、11人の多数意見。鬼丸かおる、山本庸幸両裁判官は「違憲」、木内道祥、林景一両裁判官は「違憲状態」とする個別意見を示した。(朝日新聞:9月28日)


一票の格差について考える。


このブログの定番ネタになっている一票の格差問題である。真面目に調べているのを三つ挙げるとしたら、大学教育と犯罪者問題と一票の格差となる。この隙間を、企業決算に関する数字で埋めていたが、最近は政治の悪口になっている。無駄なことなら書かなければ良いが、少しは読んでくれる人もいる。読者の為に書くほどの仕事をしてはいないが、書いておけば何かの役に立ちはしないかと自分自身の備忘録程度の価値はあろうと信じる。

さて、一票の格差の話である。1946年に公職選挙法が制定された。当然、選挙権について等しくあるべきだとする考えはあった筈だ。しかし、1947年当時、衆議院は 1:1.51 の格差があり、参議院では、 1:2.62 の格差があった。つまり、原理原則と実務とはかけ離れたものになっていた。いや、むしろ、実務的な作業負担を考慮すれば、1947年当時の格差は今日においても許容されるべき水準との認識が、最高裁判所においてある可能性さえある。参議院は出発の 2.62倍が、前回 4.77倍であったものを 3.08倍まで近付けたのだから、合格点であるという判断である。国会議員が国民全体の代表であることを否定し、地域代表であることを宣言する行為である。裁判所は法律をつくりはしないが、法律の問題点を指摘し得る機関である。何度も指摘しているが、嫌いなことを二つ書く。

  ・ 最高裁が一票の格差を違憲としない一方で、統治行為論を持ち出す態度
  ・ 国会議員が議員定数や待遇を自分達で決定するお手盛り方式

最高裁が国会に係る問題について冷淡であるのは、政治家など不浄の者として見下しているのだろう。国会議員は最高裁など勉強だけしてきた浮世離れした存在と軽くみて、有権者に頭を下げる振りだけしてやり過ごし、自分は特別に選ばれた存在だと信じて、自信の懐は温かくすることに熱心になる。どいつもこいつも、真面目に仕事をしろと言いたが、真面目に自己保身に励んでいるとなれば、足す言葉も見当たらない。
一票の格差があることを前提に、予算関係の審議などの投票には、地域の代表であることを前面に出して、株式会社張りに議会での一票に格差を係数として乗じたらどうだろうか。自分の存在が半人前以下だと言われたらプライドも傷付くことだろう。それで修正しようと思うのなら価値はある。まあ、国民全体の代表だから許されないのだろうが。
今回の最高裁の判決は、一票の格差是正に努力したねとお褒めの言葉を国会が貰ったということである。国会議員は恥を知れ。勉強だけしてきたやつらに褒められなくて良い。褒めて貰うのなら、国民からだと、声を大にして叫べ。

衆議院議員選挙が行われるので、小選挙区の一票の格差を俎上に載せることとする。小選挙区単位で比べようと思ったが、資料が見つからず、都道府県の選挙区単位で集計するのは根気が要る作業となる。今回は諦めて、簡単に集計可能な資料がある都道府県単位で有権者数と定数をまとめて、都道府県の議員一人当たりの有権者数を計算した。2012年と2014年は選挙時の数字を用い、2017年の有権者数は発表された資料が無かったので、2016年9月の数字を用いて、今回の議員定数で計算した。都道府県単位で今回と前二回の選挙でのヒストグラムを下に示す。

■ 衆議院小選挙区都道府県単位
   議員一人当りの有権者数ヒストグラム推移 (単位:千人)
       2016年   2014年   2012年
  200     0      0      0
  220     0      0      3
  240     0      1      2
  260     1      0      1
  280     2      6      6
  300     7      10      9
  320     5      6      6
  340     11      9      7
  360     6      5      3
  380     4      4      3
  400     6      4      5
  420     3      1      1
  440     1      1      1
  460     1      0      0
  480     0      0      0
  500     0      0      0

議員定数が300、295、289と減っている。議員定数を減らして、なんとなく、小さい方が減っているように見えるから、格差是正に適切な仕事なのかなあ、とも思える。そこで、都道府県単位での統計値で比較してみる。

■ 衆議院小選挙区都道府県単位比較統計値
           2016年     2014年     2012年
 平均      368,023    352,416    346,533
 最大      448,955    434,024    428,835
 最小      241,393    238,477    210,185
 標準偏差    43,706     42,592     52,500
 総定数       289       295       300
 最大/最小     1.86      1.82       2.04


最大になっているのはいずれも東京で、最小は2012年が高知、残りは鳥取である。
今回選挙で更に改善されたかと思ったら、最大と最小の比も、標準偏差も悪くなっている。平均値±σ (標準偏差) の間に68% が収まるというのが、正規分布の示すところである。2σくらいまで行けば良いのだが、95% 入るということは格差が大幅に是正されたということであるから、ここまでいくとは思えない。
選挙区単位で分析しなければ意味がないという意見もあるだろう。実際、東京都の小選挙区数は25あり、鳥取は2である。これを統計的に同じ重みとして扱うのは不適当だと考えるのは合理性が高い。少なくとも、小池百合子の記者への返答より、高度な論理性があると認識する。それでもこんな数字の比較をしたのには訳がある。選挙制度が都道府県を管理単位に実施しているという事実があるからである。
小選挙区の区割り変更を実施するとき、市が複数に分割される場合はままあるが、県を跨いだ選挙区はない。記事の選挙区例で、複数の県がいっしょになった合区が扱われているが、これは分割ではなく統合である。小選挙区で格差を是正しようとすると、都道府県の境界を守ることが大きな障害になっている。都道府県など行政上の便利の為にある仕組みに過ぎず、国家の在り方とは別の種類の問題に過ぎない。しかし、過去の習慣から逸脱することを極端に恐れる行政実務家は、こんな乱暴な考え方を採用することは決してない。

一票の格差を衆議院の小選挙区で解決するには、都道府県の枠を超えなければならない。もし、都道府県に意義を持たせたいのなら、参議院は有権者数に選挙区の面積を乗じたもので格差をなくすとでもすれば良い。扱う面積の大小に根拠の一部を求めるのは意味もあろう。ただしそれは参議院に限られる。そんなこんなはまた何れ。


政党など壊れても良いが、壊れた者しか議員にならないのは問題だ。

2017年9月20日 (水)

三菱自、SUV型のEV出展へ

東京モーターショーで  三菱自動車は9月20日、10月下旬から開催される東京モーターショーで多目的スポーツ車(SUV)型の電気自動車(EV)のコンセプトモデルを出展すると発表した。電動化や四輪制御の技術を進化させるほか、新たに人工知能(AI)を活用した機能を搭載する。
EVは日産自動車が「リーフ」を全面改良したが、SUV型は国内メーカーでは珍しい。三菱自は軽規格の小型EV「アイ・ミーブ」やSUV型のプラグインハイブリッド車(PHV)「アウトランダー」を販売している。得意とするSUVでEVモデルの開発を加速する。AIではヒト型ロボット「ペッパー」との対話などから運転手の意図や状態を理解し、情報を提供する機能を開発している。コンセプトカーでもこうした技術を活用するとみられる。東京モーターショーは10月25日から11月5日まで開催される。(日本経済新聞:9月20日)


電気自動車について考える。


三菱自動車の i-MiEV は2009年6月に販売開始であるから、自動車のモデル、特にエレクトロニクス技術を最初に用いたモデルとしては、随分と時間が経過している。電気自動車でないとしても、モデルの元になった i は2003年販売開始で2013年に生産終了となっている。自動車のシャーシはモデルチェンジ2回流用されるのが普通のようだが、14年というのはさすがに古い。i の方は、ダイムラー・クライスラーとの提携解消が開発時にあったりと複雑な経緯を経ているし、 i-MiEV はといえば、2010年にPSAグループへの供給が決まるも思惑通りには行かなかったと、三菱自動車の運命と同じく揺れ動いている。
親会社が日産になった今では、電気自動車市場での差別化を求めて、市場で売れているSUV仕様で再度参入しようという話である。SUVといっても本格的なものではないのは当然で、そもそも位階の充電での走行距離が小さいのだから、座席位置が高く見晴らしの良いSUVスタイルの電気自動車ということになるのだろう。電気自動車の最大の問題点が走行距離にあるのだから、4WDなど不要だし、タイヤも転がり抵抗の小さなものにしたいと、重量を小さくする流れが本流であることは明らかである。それでも売れなければ仕方ないということは動かし難いから、SUVスタイルの街乗りモデルというのが着地点になるのだろう。
i-MiEV が発表された頃は、ガソリン自動車との操作性の差異を小さくすることを重視していたが、最近の電気自動車やハイブリッド車では、アクセルを緩めた時に発生する回生ブレーキを積極的に用いるようになっている。ガソリン車との違いは大きくなるが、回生で得られるエネルギーが発生するなど燃費の改善に貢献する。こうした制御系のソフトウェアの見直しは当然行われるだろうが、それに加えてシャーシ系の最適化作業も必要になるのだろう。

結局のところ、三菱自動車の仕事は、日産に先んじて実験的な製品を商品化することに重点が置かれることになるのだろう。潰れた会社の生き残りなどこんなものだろう。


日産も一度潰れた会社ではある。

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