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2017年5月23日 (火)

大西議員 がん患者に「働かなくていい」暴言、謝罪も撤回せず

自民党の受動喫煙対策に関する会合で、タバコの煙に苦しむがん患者に関し「(がん患者は)働かなくていい」との趣旨のヤジを飛ばした大西英男衆院議員(東京16区)が5月22日、党本部で会見を行い「私の発言でがん患者や、元患者の気持ちを傷つけたことを深くおわびします」と謝罪した。会見では神妙な顔で失言だったことを認めたものの、傷つける意図はなかったとして発言の撤回は「ありません、ありません」とした。
大西氏の発言を受け、がん患者団体が一斉に猛反発。「全国がん患者団体連合会」はホームページに、大西氏を名指しはせず「国会議員の発言」とし、「がん患者の就労のみならずその尊厳を否定しかねないもの」と批判する文書を公表。別の患者団体も会見で怒りをあらわにした。
身内からも批判が相次いだ。自民党の下村博文幹事長代行は大西氏と党本部で会い、厳重注意した。また、同党の二階俊博幹事長は記者会見で「大いに反省させることが大事だ」と強調した。問題発言があった党部会は15日に行われた。出席した三原じゅん子参院議員が、職場でタバコの煙に苦しむがん患者に言及した際に、大西氏が「働かなくていい」とヤジ。三原氏は子宮頸がんを克服し、参院議員になったがんサバイバーだけに、その日のブログには「仲間であるがん患者の皆さまに謝罪の気持ちを持ってもらいたい」と記し反省を促していた。(スポニチ:5月23日)


ヤジについて考える。


大西は日頃から問題発言をしている人物である。大西の問題は、責任のある場所での発言ではなく、それ以外の場所で注目されることにある。もちろん、議場でも問題のある発言をしているのだが、議場は何を言っても良いところである。大西の不規則発言の例としては、「まず自分が子どもを産まないとダメだぞ」、「巫女のくせに何だと思った」、というのがあった。何をしたいのかが分からない。訴えたいことがある訳ではなく、自分が偉いと主張したいだけのようだ。
大西の特性をそのように推定して今回のヤジを振り返る。三原の健康への影響を心配しているという内容の発言に対して、そんなに心配なら、ガン患者はそんな環境の職場で働かなければ良い、という趣旨であったろうと想像される。十分な分煙対策を講じることと、労働環境について事前に周知する必要があるということ、それらが一定水準達成されるのなら、発ガン性に関して必要以上に神経質になるのは行き過ぎだという考えはあるだろう。これとて、いかに上手に発言したところで、今日の環境では否定的な意見で叩かれるのが必定である。
大西は正式には発言する機会ではなく、会議のヤジとして匿名を良いことに騒いで、その後、自身の発言だと特定されると判断するに至り詫びることになった。

ヤジは嫌いである。最も嫌いなのが、発言する機会の与えられた側が発するものである。大西は自民党厚生労働部会において発言可能な立場か否かについて知らないが、発言機会の可能性がないということもあるまい。党内の部会である。正式な手続きにより可能になるものだろう。正式な手続きで排除される可能性も、もちろん大いにあるだろうとは想像されるのではあるが。
ヤジで攻撃する手法は、発言している者を遮ることが目的になっている。よって、大西の目的は三原がガンの経験者であり、社会的な弱者ぶって発言しているのだから、そんなに弱いのなら外に出るなという方向性にあるのだろう。つまり、ヤジである以上、言葉に論理的な解説を加えたところで、差別的、排除的な色は残るというものである。

本当の関心は別のところにある。自民党厚生労働部会が非公式な場であると認識されて、三原は部会長から、この問題について表だって言及することを控えるよう求められたという。おかしな話である。部会長は誰かを調べたら、どうやら渡嘉敷奈緒美であるようだ。過去に不倫疑惑で有名になった人だが、薬剤師でもある。都議会議員選挙への影響を心配してのことだろうが、発言したのだから、その責任は負わねばならない。要らぬ配慮である。そんなことばかり気を使っていると、部会長は仕事をしないで良いと言われそうだ。そもそも、大西は仕事をしていなさそうだが。


私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。(Voltaire)

2017年5月22日 (月)

毎日新聞の陛下発言報道を否定

天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議のヒアリングで、保守系の一部専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が不満を漏らしたと毎日新聞が報道したことについて、宮内庁の西村泰彦次長は5月22日の記者会見で「陛下が発言をされた事実はない」と否定した。
毎日新聞は21日付朝刊で「陛下 公務否定に衝撃」「『一代限り』に不満」との見出しで報道。保守系の専門家の指摘に、陛下が「批判をされたことがショックだった」と話したことなどを紹介した。毎日新聞社は社長室広報担当名で「十分な取材に基づいて報道しております」とのコメントを出した。(ロイター:5月22日)


天皇陛下の発言について考える。


天皇が宮内庁以外の役所に要求を言えば、憲法に抵触すると問題になる。その自覚を持ち、自身の意見を公表する方法を役人と一緒に検討するのが皇族、特に天皇家の手法である。それ以外の方法は考えられないということだろう。
このような事情を考慮すれば、毎日新聞の記事で、宮内庁経由で官邸に意見を発信したというのは、事実であるか疑わしいところである。官邸に向けて発言することもあるだろうが、それは決して漏れてはならない発言として扱われるものである。それ故、毎日新聞の報道を誤報とは思わないが、すべてまとめて真実と思うには躊躇いを感じるのである。

電車に乗っていたら、記事の内容について、人権問題だと言う人がいた。皇族に人権など無い。選挙権はないし、職業選択の自由もない。宗教選択の自由もないし、結社の自由もない。かろうじて学問の自由は許されているとも言えるが、受け入れ先の都合という理由で差別されても文句は言えない。そもそも、この国にあって、唯一門地による差別が法律で認められている存在である。
東京大名誉教授の平川祐弘や上智大名誉教授の渡部昇一らが、「天皇は祈るだけでよい」と発言したとされる。公務の負担軽減を考えて、国事行為以外を切り離しで、残った部分を国民に向けるのなら、確実に肉体的な負担は軽減されようという発想なのだろう。アサハカである。
象徴天皇制の制度化の皇室の在り方について、最も真剣に考えて来た者の一人は、今上天皇であることは疑いようがない。この制度を将来も維持することを前提にしたときに、広義の公務を遂行出来ない状態が生じれば退くものだとする指標は、この先にも必要になるものと信じたとしても不思議はない。一代限りでは、個人的な我が儘に見えるし、そもそも、皇族という存在に我が儘という言葉が近しいものだとは到底思えない。

保守系の専門家と称する者は、天皇制を維持することが、日本のプレゼンスを高めるのに効果的であり、特に外交交渉について顕著である、などとする経済中心の思想によって判断しているのだろうか。天皇制など経済原理で計測するものでもあるまい。象徴天皇制は戦後のものだし、帝国憲法下での天皇の地位にしたって、それ以前のものと連続性が十分にあるというものではない。だから、続いていることだけに価値があるというのなら、経済原理として正しいのだろう。しかし、保守政治家などと称する者たちに主張に従えば、具体的には自民党の憲法草案に見られるように、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」の頂点に位置するのが天皇家というものだろう。これを激しく批難するが、思想良心の自由は保障しよう。それなら、天皇家の地位についてのありようを真剣に考えろと言いたい。
今日において金銭というのは、欲望の数値化に過ぎない。天皇制の経済効果を算出して、損得を出すのは自由であるが、それだけですべてを決められるものではない。最近の保守政治家やその取り巻きという輩、失礼、方たちは、新自由主義経済に毒された天皇制を掲げるとウケが良いとして、便利に用いているだけの存在ではないか。



天皇家に、祈るだけのよく、続いているだけで価値があるというのは、本気で絶倫パンダとして保護するつもりのようだ。そもそも基本的人権が無い存在であるのだが、許されるものとそうでないものがある。ワシントン条約で保護する対象にすると同時に、エセ保守政治家を特定外来種として駆除の対象に指定したらどうだろうか。絶倫パンダに害はないが、特定外来種はこの国の国土を荒廃させてしまう。

この国の文化としての天皇制について、国民が自由に判断し、総意をいかにまとめるかという課題である。特定のお友達の利益で動かす話題ではない。それだけの話を、どうして歪めるのだろうか。



皇族に被選挙権を与えたらどうか。法的には嫁に出れば立候補可能ではあるが。

2017年5月17日 (水)

眞子さま婚約へ 大学の同級・小室さんと

宮内庁は5月16日、秋篠宮家の長女、眞子さま(25)が国際基督教大(ICU)在学時の同級生だった小室圭さん(25)と婚約されることを明らかにした。小室さんは横浜市在住。東京都内の法律事務所に勤務し、一橋大大学院にも在学している。一般の結納に当たる「納采(のうさい)の儀」を経て結婚される見通しだ。
16日夜に取材に応じた宮内庁の山本信一郎長官は「しかるべき時期に宮内庁から発表するべく計画を進めていた。お二人の準備が整えば婚約内定を発表したい」と述べた。正式発表の時期は未定という。皇室典範の規定により、眞子さまは結婚後、皇族の地位を離れられることになる。(日本経済新聞:5月17日)


皇族について考える。


秋篠宮家に男子が生まれてから、女性宮家の話は下火になった。女性天皇に抵抗の少ない民主党から、反対意見を持つ者を支持者とする議員が存在する自民党に政権が移ったことも影響していよう。男系に限るとする原理主義者も、制度の手直しなしでは、今上天皇の孫の世代に男子が一人のみである状況からすれば、制度の維持が難しいことは理解していよう。現行の制度変更なしで、制度は維持するというのなら、この原理主義集団は、リスクは信念で回避可能であるというアンティークな思想で支配されているファンタジーな世界に暮らしているということだ。

原理主義者の主張を支持しないでもない。男系皇族に限定している制度を維持し、もし該当者が存在しない状況になれば、制度を閉じるという考えである。天皇家に伝わる様々なものは、国の財産と認定されているようだから、国宝が失われる心配はない。物質としての文化財にダメージはないということである。国の行事に関わる事柄については法律の改正が必須であるし、憲法の改正も当然求められる。それは戦後の様式美の類と割り切ればなんとでもなる。天皇家の儀式の在り方については、その後も宮内庁で儀式を継続すれば良い。弘法大使が入定しているのだから、それと同じような発想であっても構わないだろう。真言宗の方に怒られるのは承知しているし、いやはや何とも不敬罪である。

制度維持に関するリスクを理性的に捉えれば、男系を継続するとなると過去に皇籍離脱した男子を皇籍復帰させるということになる。昭和22年10月14日の皇籍離脱者の男系子孫が対象となるが、現在二十歳前後である対象者はどれくらいいるのだろうか。少なくとも、結婚していては配偶者を皇族に迎え入れるという作業に障りがあろうから、独身であることが必要となるだろう。皇籍離脱者の対象になったのは11宮家であるが、想像されるほど該当者は多くないようである。一般の国民を公表する必要性も感じないが、該当者がどのくらいいるのかくらい示しても良いと思う。これとて、該当者に皇室に移ることを強制できる筈もない。百人の該当者がいても、受け入れる人が一人もいなければ成立しない。適切か否かについては該当者のリストアップから始めるよりないが、その先の道筋が描けない。

天皇制を維持継続するとなれば、女性天皇を認めるのが現実的な解になるのは分かる。しかし、既に皇室を離れた紀宮清子内親王(黒田清子)、高円宮家の典子女王(千家典子)が近くにあり、他の女性皇族との不平等とする意見がある。制度変更による不平等は避けられないから、ここでは議論しないことにする。
過去に寬仁親王が、自身の二人の子 (ともに女性) に対し、いずれ皇室から離れることを前提に躾けているという趣旨の発言をしていた。親としては当然だろうが、それを理由に法改正が出来ないという話でもない。情緒的には惹かれるが、論理的には汲む余地もない。また、寬仁親王の発言について、マスコミから憲法上の制約を受ける立場であるので、控えるのがよろしかろうとする報道もあった。今上天皇が発言するのはまずかろうが、他の宮家なら皇室制度に対する発言くらいあって良い。不必要な配慮である。

基本的な立場を明らかにしておこう。皇室の在り方は国民が決めれば良いと考えている。止めても良いし、継続しても良い。外交上の利点は多くあるから、経済的には負担はあっても継続するとリターンも期待されるという見方も成立しよう。しかし、それが継続する理由であってはならない。文化というのは、経済活動ではない。
最も問題なのは、皇族の立場である。皇族は法律で基本的人権が激しく制限される立場である。逆な見方からすれば、憲法で門地による差別を認められている立場である。こんな制限を受ける立場は、極めて限定的でなければならないし、制限も小さくしていくのが良いと考える。それでは皇族ではないという意見もあろうが、歴史に裏打ちされた制度は、そんなに脆弱ではない。もし脆弱性が心配されるのなら、国民からの尊敬の念の方である。こっちが失われるのなら、制度を取りやめにして、文化財になるか、宗教法人になるかすれば良かろう。繰り返す。国民が決めることである。
ということをまとめると、女性宮家の創設ということを選ぶことになる。一般の環境の中で二代に渡り生活したのなら、それから皇族になっても主体的な立場で行動することもなかろう。女性皇族に、元皇族の子孫を配偶者に迎えるというのは、現実的な妥協点になるのかもしれないが、発言不可の皇族に押し付けるのは忍びない。本件に関して発言を解除する法律を作りたいと思うが、発言しないものなのだろう。

不敬罪を承知で言えば、男性皇族に、和歌山の絶倫パンダのようになることを期待するか、サラブレッドでも禁止している人工授精で大量に子孫を増やすか、という非常識なことが解決案になるのだろうか。個人的な家庭の問題であれば、成り行きで仕方ないで済ませれば良いことではあるが、法律で規定される立場というのは制度維持と直ちに関係するから困る。現在の法律では皇室を離れるのだから、婚姻により離れるで良い。それが国民から祝福されるのなら、なお良い。


ヤクザ政治家に忖度が向けられて、皇族に忖度が向かわない。何たることか。

2017年4月28日 (金)

東京・杉並の違法建築マンション 不動産業者に賠償命令 東京地裁

東京都杉並区のマンション敷地内に戸建て住宅が新築され、マンションが違法建築となった問題で、住民1人が不動産業者3社に住宅の撤去などを求めた訴訟の判決が4月28日、東京地裁であった。谷口安史裁判長は「住民に対応を検討する十分な機会を与えなかった」として戸建て用地を販売した「フロンティアライフ」に33万円の支払いを命じた。撤去請求は退けた。
建築基準法は敷地に建てられる建物の延べ床面積(容積率)の上限を規定。マンションが建築確認の際に申請した敷地内に新たに住宅が建つと、土地の「二重使用」となり、マンションの方が違法建築となる。マンションは底地と駐車場部分を敷地として建築確認を申請。敷地全体の所有権を取得したフロンティア社が駐車場部分を転売し戸建て6棟が建てられた。判決はフロンティア社に「住民が駐車場を敷地として利用できるよう協力する義務があった」と判断した。(産経新聞:4月28日)


建築基準法について考える。


駐車場をマンションの用地に含めて申請したが、その後、駐車場を分譲してしまったという話である。建物の建蔽率や容積率は、この土地の面積を基礎として算出する。分譲する大型マンションの場合には、この基準の最大を守る数字で建設するのが普通だから、土地が切り離されると不都合が生じる。不都合というのは、建築基準法違反の建築物になるということである。
違反建築の場合にどのような対応が取られるかを考える。マンションは既に分譲され、住人がいる状況であるので、このようなケースで行政による是正措置が命じられる可能性は低いと言われるが、まったくない言い切れるものでもないようだ。事情があったことを考慮すれば、ないと思って良さそうだ。
マンションを建て替えようとした場合はどうだろうか。建物自体を建て替える際、容積率・建蔽率・斜線制限に違反していると、元と同等の規模の建物にすることは出来ない。しかし、マンションの建て替えは大変なことで知られているから、現実的な問題として発生するかと言えば、可能性は低い。もしするなら、容積率違反分部屋を減らすということになる。大きな資金が動くから、実務担当者には作業負担が増えるが、やるだけのことである。
もう少し現実的な例を考えよう。マンションは晴れて違反建築と決まったので、売ってしまえと思う人もあるだろう。このマンションの売却は可能である。しかし、違反建築物であるという旨を重要事項説明として伝える必要がある。報道されて有名になっているからこれ自体は少しのマイナス要因に過ぎない。しかし、購入予定者が住宅ローンを組もうとすると問題になる可能性が出てくる。住宅ローンの審査基準に、建築基準法に適合しているかという項目があるからである。築物が許容範囲外の違反であった場合は、融資対象外となる。結果として、価格を抑えて売却しなければならないということになる。これは実際的な問題である。それでも、すでに住宅ローンの審査を通っている人に影響することはないから、売却しなければ良いというだけの話である。

問題が生じることを考慮すれば、6棟分譲した土地をマンションの管理組合で購入すれば済んだ話である。google Map で当該地域を見ると、マンションの大きさに比べて、小さな分譲住宅である。買って駐車場として貸し出せば良いだけのことである。マンションが比較的新しく、管理費の積み立ても乏しく、土地購入という大きな負担は受け入れられない事情は容易に想像が付くが、それをしないから違法建築になってしまった。
不動産業者に支払いを求めた判決は、不動産会社に一定の説明責任を求めたものであるが、建物の撤去などの原状復帰にまで及んでいない。つまり、マンション住人にも、一定の注意義務はあったという判断なのだろう。自分の財産である。そのくらいは求められるだろう。見えないところで、家ができた訳でもない。

問題のマンションは、第1種低層住居専用地域にある。建蔽率60%、容積率150%となっている。都市部といっても商業や政治の中心からは少し離れている。このくらいという数字である。日影規制値種別は(二)とある。これは、5mを超える範囲:4時間以上、10mを超える範囲:2.5時間以上、測定水平面:1.5mということだが、内容はサッパリ理解出来ない。普通の場所に、少々大き過ぎる建物をつくったということのようである。


容積率が200%になれば、違法建築でなくなる。だれか忖度してくれないか。

2017年4月 7日 (金)

終末期の望まない蘇生、救急隊員「医師確認し中止を」

自宅などで最期を迎えようとしている終末期の患者に対する救急隊員の対応について、各地の消防本部や救急隊員、医師らでつくる「日本臨床救急医学会」は4月7日、提言を発表した。心肺停止後の蘇生処置を望まないと事前に書面で残している場合、かかりつけ医に是非を直接確認した上で蘇生処置を中止するよう求めた。
総務省消防庁の基準では、生命に危険がある場合、応急処置を行うよう定めている。ただ最近は蘇生処置を拒否する意思を事前に表す人が増えている。こうした場合への対応は示されておらず、現場では救急の原則か患者の意思尊重かで対応に苦慮している。同学会は2015年4月に検討委員会を立ち上げ議論してきた。提言によると、患者が心肺蘇生を希望していない場合、家族は「119番通報をしないのが望ましい」としている。しかし容体の急変に慌てて救急車を呼んでしまうことがある。こうしたケースでは現場に駆けつけた救急隊員は、家族などから蘇生処置を希望しないとの書面の提示を受けたとしても、心肺蘇生を始めるべきだとした。その上で、かかりつけ医と連絡をとり、中止を指示されれば患者本人の意思を尊重して心肺蘇生を中止する。かかりつけ医と連絡がとれない時は、日常の救急業務で相談している医師を代役として指示を求めるべきだとしている。都内で記者会見した同学会の坂本哲也代表理事は「提言を参考に、地域の消防、医師会などが集まって運用をどうするか議論していただきたい」と述べた。(日本経済新聞:4月7日)


帰りの中央線は高尾行きだった。
比較的すいていて、座席に座ることが出来た。すると、なんだかデパートの一階の匂いがする。
右隣を見ると、ピカピカのメイクをした若い女性がいた。随分と赤い口紅は、会社帰りのOLには見えないが、水商売でもなさそうだ。お祝いに行く風でもない。膝の上に抱えた大きな紙袋のブランドは、残念なことに知らないが、紙質から想像するに高級ブランドだろう。綺麗に整えられた髪、整った肌の表情は、メイクだけの技量で補えるものでもあるまい。
お嬢さん、高尾山の自殺者は多いが、山岳信仰の対象であるから、自殺の場所の選択として最適ではない。そもそも、その踵の尖った靴は、山に入るには相応しくない。虫は少ない時期ではあるが、まだ少し寒い時期である。高い山でないとはいえ、少し薄着過ぎる。
それなら、終点の高尾駅で十分ほど待てば河口湖行きが来る。それに乗って、次の相模湖駅で降りれば、人造湖である。人間が近年造ったものなら、信仰の対象から外しても良いという考えも成立しそうである。しかし、それは新興宗教を伝統的な宗教より下に位置する考えと批判されるかもしれない。しかし、湖から上がった死体の損傷は激しいことが知られる。美しい仕上がりのメイクには惜しいところだろう。
他人を傷付けるのは、許されないだろう。しかし、傷付ける先が自分自身であれば、思想良心の自由となるのか。自殺を禁ずる宗教は多いが、宗教など興味がないとする思想もあろう。倫理的な考えを押し付ける根拠もない。ただ、自殺しようとしてしくじると、救命救急に関わる人達が、全力で究明しようとするだろう。つまり、失敗すると社会に迷惑を掛けることになる。

救急隊員の対応に新たな判断を持たせようとしている。まったくもって愚かである。救命の為の訓練を行い、鍛練を積む専門家の仕事には、救急救命の任務のみに限定されるべきものである。仮に何らかの事情により、患者が心肺蘇生を希望していないという錯誤が生じた場合に、救急隊員が批難されるに決まっている。これは理不尽である。このような小さな穴が鍛練を積むというダムを崩しさる。救急隊員は通常期待される仕事を迅速に実施すれば良い。患者が希望していないことや、患者の家族もそうであったにしても、救急隊員を呼んだからには途中で解約出来ないとすれば良い。それが、救急隊員の社会的な信用を貶めない為の策である。
救急隊員を惑わすような提言をするのか理解不能だ。救急隊員は命を救う為に最大の努力を行うだけで良い。それ以外の仕事は、別の誰かが担えば良い。現場の混乱への対策だとしているが、新たな混乱を引き起こす対策が、現場の負担軽減になる筈もない。


助けないことを是とする仕事に手を広げたら、葬祭場への移動までさせられそうだ。

2017年3月28日 (火)

官房長官、籠池氏の手紙「国会の決定あれば提出」

菅義偉官房長官は3月28日午後の記者会見で、学校法人「森友学園」(大阪市)の籠池泰典氏から安倍昭恵首相夫人付の政府職員への手紙について「(参院決算委員会の)理事会で決めて頂ければ積極的に提出をしたい」と述べた。
問題の手紙は会見前の参院決算委員会で、共産党の大門実紀史氏が入手したと説明していた。大門氏は「籠池氏の一番の眼目」は定期借地の条件緩和ではなく「国有地を早く買い取ることはできないか」ということだったと指摘した。そのうえで「(公開済みの)ファクスだけだとゼロ回答にみえるが、籠池氏の要望は時間差はあるが全て実現した。ゼロ回答どころか満額回答ではないか」と安倍晋三首相や菅官房長官の見解をただした。首相は「私自身は一部しか読んでいない」と、菅氏は「内容からしてゼロ回答だったと思う」と、それぞれ答弁した。菅氏は会見で、内容が公になれば「ゼロ回答で、忖度がないということがよく分かってもらえると思う」と語った。(日経QUICK:3月28日)


忖度について考える。


忖度がないというのは、忖度されたとされる側に聞いてみて初めて分かるものである。政府答弁で、忖度を物的証拠によって説明しようとするのは無理がある。忖度というのは、顔色を窺うところから始まり、ご機嫌伺いの判断を下したところで終了する。ゼロ回答だから忖度が存在しないという論理は、忖度というのは、そもそも証拠など残さぬように気遣いして執り行うものであるから、破綻しているというより、まるでお話しにならない説明である。
森友学園問題で、安倍昭恵は忖度を強要している様子が窺える。それが事実でないことを証明するのは可能であるが、安倍昭恵の立ち振る舞いを見て、周囲の人間が首相の意向もあるようだと思ったことを、政府が証明するのは困難である。忖度はあったが、結果が伴わなかった場合に、忖度がなかったと菅は説明するのだろうか。つまり、忖度を罰する規定などなく、国有財産の処分について、特定の人物・団体に有利になるように取り計らったことこそが規則に違反する行為である。共謀罪のように、思っただけで処分するのであれば、安倍昭恵の行動に公務員が同行している状況で既にクロである。周囲は時の首相の意向であると信じるに足りる要件を満たしている。

政府がゼロ回答だから忖度はない、はバカだと一言で捨て去って良いのだが、付ける薬のない政治家は、結果が伴わなかったことと、忖度を等しく考えている。忖度で行動しても、他人が動かない場合がある。恐らく国家公務員は動かない方が多いだろう。この国の公務員は、公平性について非常に神経質に出来ている。だから仕事が遅い。
手紙を公開しても、忖度しようと思ったという様子と解釈は可能だから、証拠性は小さく、結局のところ、安倍昭恵の事情聴取の必要性の議論に流れるよりない。何を話すか分からない人だから、野党の質問に答えさせる訳にはいかないのだろう。それなら、国有財産の処分について、関係した公務員の証言を政府が責任を持って実施すれば良い。それだけの話である。


政府は近畿財務局に対し忖度するのだろうか。

2017年3月23日 (木)

政治家達の発言

森友学園問題で、安倍昭恵夫人がコメントを発表した。コメントは以下のとおり。


本日の国会における籠池さんの証言に関して、私からコメントさせていただきます。

(1)寄付金と講演料について
私は、籠池さんに100万円の寄付金をお渡ししたことも、講演料を頂いたこともありません。この点について、籠池夫人と今年2月から何度もメールのやりとりをさせていただきましたが、寄付金があったですとか、講演料を受け取ったというご指摘はありませんでした。私からも、その旨の記憶がないことをはっきりとお伝えしております。
本日、籠池さんは、平成27年9月5日に塚本幼稚園を訪問した際、私が、秘書に「席を外すように言った」とおっしゃいました。しかしながら、私は、講演などの際に、秘書に席を外してほしいというようなことは言いませんし、そのようなことは行いません。この日も、そのようなことを行っていない旨、秘書2名にも確認しました。
また、「講演の控室として利用していた園長室」とのお話がありましたが、その控室は「玉座の間」であったと思います。内装がとても特徴的でしたので、控室としてこの部屋を利用させていただいたことは、秘書も記憶しており、事実と異なります。

(2)携帯への電話について
次に、籠池さんから、定期借地契約について何らか、私の「携帯へ電話」をいただき、「留守電だったのでメッセージを残した」とのお話がありました。籠池さんから何度か短いメッセージをいただいた記憶はありますが、土地の契約に関して、10年かどうかといった具体的な内容については、まったくお聞きしていません。
籠池さん側から、秘書に対して書面でお問い合わせいただいた件については、それについて回答する旨、当該秘書から報告をもらったことは覚えています。その時、籠池さん側に対し、要望に「沿うことはできない」と、お断りの回答をする内容であったと記憶しています。その内容について、私は関与しておりません。

以上、コメントさせて頂きます。

平成29年3月23日
安倍 昭恵



細かいところに拘る一方で、大きな部分については触れないというのが、森友問題に関する関係者の対応である。大きな話というのは、国の財産が特定の誰かに特別扱いをして有利に譲渡されたこと、この特別扱いに政治家が直接乃至は間接に関係していること、といったものである。一方で、細かな話は、講演料だとか、寄付をしたとか、公務員が秘書として帯同しているとか、携帯電話での通話があったとかである。
大きな問題は、直接的に政治家が金品を受け取り、尚且つ、役人に働きかけをしたということなら、刑事犯罪を構成するが、これはないというのが関係者の主張である。刑罰があるのだから、ありますということもない。安倍晋三には黙秘権があり、発言は有利にも不利にも証拠として採用される可能性があることを、野党は告知しなければならない。野党が細部に拘るのは、細部にウソがあり、このウソを付いた理由が明らかになれば、大きな問題があぶり出されると考えているからである。与野党のどうでも良い話をグダグダしているというのは、国の財産の処分に不適当な力の介入があったという大きな事案をあぶり出すのに必要なのだろうが、少し回りくどいし、スピード感に欠けると言える。
籠池の証人喚問に成功した野党は、安倍昭恵を引っ張り出すのは容易だと考えたが、さすがにそうはいかなかった。安倍昭恵のノーガード戦法は、記憶力がないし、理性的な判断は出来ないし、金の価値など分からない、とないないずくしで構成されている。証人喚問に引き出せば泣きだす可能性さえあるが、支離滅裂な怪しい女なら何をしでかすか分からないと国民が思ってしまうことになり、これは困るというものである。逆に、知恵を付けて正しい筋道を発言させるという方法も考えられるが、何せこのお嬢様は何に価値があるかを判断できないから、危険過ぎると考えたのなら、自民党の政権幹部は理性的な対応である。
安倍昭恵は学生時代勉強もせず、バブル時代を謳歌して、系列の大学には進まずに親のコネで大企業に就職し、当然のことながら、有名人と結婚したという、大企業の経営者の子弟の典型例の履歴を持つ。結婚した相手が政治一家であり、選挙に強い地方議員であれば、選挙は番頭任せで、その妻など綺麗な人形飾りの類に過ぎなかろう。結婚前も結婚後も学ぶことをしてこなかったが、歳を取って自信の学びの乏しさを感じたか、立教大学の修士に進んでいる。社会人が大学院に進むのは、比較的容易である。特に私立の社会科学系においては、政治家の関係者はフリーパス状態になっている。ある種の学歴ロンダリングであるが、この学歴が不適切に利用されないのなら良いのだが、選挙活動に活用される状況では問題なしとはしない。それでも、学ぶことは良いことである。
どの年齢においても、大学で学ぶことの価値は、自分自身の能力の低さを実感することと、それでも価値のある仕事をしようとファイティングポーズをとることの二つにある。安倍昭恵は、能力の低さを実感するレベルにすら達せずに、後者の自分の価値を過剰に感じてしまうのではないかと想像する。価値のほとんどすべては、元首相夫人で片付けられるものであった筈だ。その肩書を外して、何ができると自身に問うて、何も出来ないと感じるところがスタートとして然るべきであった。そうしなかったことが、今日の状況である。
典型的な例が、居酒屋経営である。安倍昭恵が人を呼べる理由はない。安倍晋三夫人だから価値がある。その認識がない。そして、それを指摘する者がいない。あるいは、聞かない。


私人か公人か分からない人に、公務員を付けるのも不思議だ。公務員が付いた時点で、公人相当とする判断を出せば良いだけの話である。予算を付けておきながら、都合良く私人に変身する解釈は見苦しい。
そもそも森友問題で集中砲火を安倍が浴びた理由は、、「私や妻は一切関わっていない。もし関わっていたら間違いなく、首相も国会議員も辞任するということを、はっきり申し上げる」などと発言したからである。私はともかく、妻の行動など掌握していた筈もないのに、妙な虚勢を張るのがこの御仁の特徴である。結果、野党はこの挑発に乗るよりない。与党は正しく潰さねばならないのに、制御不能な籠池一家や、発言に安定性の欠ける稲田や、制御も予測も不能な政府公認私人の安倍昭恵と危険材料に事欠かない。
これでは収めようもない。籠池一家は経済的に破綻するのは必定で、潰れれば見捨てられるだけだ。籠池一家は、経済右翼であって、右翼思想を広めようなどとは思っていない。これが金になるからという理由である。これは、稲田にも安倍にも共通している。右翼は怒った方が良い。

政治家の言葉が軽くなっている。何を言っても許されると思っているということは、何を言っても批判されるというのと等価である。唇寒しとなる日も近いということだ。


政府公認私人の選定基準を閣議決定して貰いたいものだ。

2017年3月22日 (水)

カゴメ、機能性表示食品の野菜ジュース発売を延期

カゴメは3月22日、5月16日に予定していた機能性表示食品の野菜ジュースの発売を10月3日に延期すると発表した。トマトジュースの需要拡大に伴い、同じ生産設備で製造する予定だった野菜ジュースの生産体制を確保できないと判断した。
機能性表示食品を取得した「カゴメ野菜ジュース」は、パッケージに「血圧が高めの方に」と記して販売する予定だった。機能性表示と表記していない現行の野菜ジュースの販売は続ける。(日本経済新聞:3月22日)


トマトジュースについて考える。


日本ではトマトは生食するのが普通だが、欧米では加工用の野菜と認識されている。加工用の代表としては、トマトジュース、トマトケチャップ、トマトソースがある。他にも野菜ジュースの原料の一つにもなっている。日本でのトマト栽培面積と、トマト出荷量、その内の加工用トマトの出荷量の推移を農林水産省統計よりまとめたのが下である。

■ トマト作付面積、出荷量と加工用トマト出荷量推移 (農林水産省統計)
   年     面積(ha)   出荷量(t)    加工用(t)
  2003    13,200      669,000    48,400
  2004    13,100      666,000    43,700
  2005    13,000      668,100    41,700
  2006    12,900      642,200    38,900
  2007    12,700      663,800    41,100
  2008    12,500      648,300    42,200
  2009    12,400      634,600    37,800
  2010    12,300      613,500    37,200
  2011    12,000      625,900    28,200
  2012    12,000      644,500    38,300
  2013    12,100      670,500    34,500
  2014    12,100      665,600    33,700


トマト全体に占める加工用トマトの割合は 10%以下に留まる。 オランダのトマト栽培の高生産性を比較に、国内農業の生産性を問題視する論理が見られるが、欧州では加工用が劣んどで、日本では逆に生食がほとんどとなれば必然的に生産方法も異なる。オランダのトマトを生食するとまずいと言われている。最近は品質が改善されたそうだが、日本人の味覚にあったものにはなっていないだろう。
加えて言えるのは、日本での生食用のトマトのkg単価は300円水準である。一方、加工用トマト (ほとんどが契約栽培になる) の同単価は70円水準である。これも近年値上がりしたもので、十数年前には30円水準であった。つまり、トマトの生産性が10倍高くでも売り上げは同じになるということである。
加えて、トマト加工品には、加工工場の近くに産地が無ければならない。常識的な表現をすれば、近くに産地がある場所に工場を建設する。付加価値が低い状態で、傷付きやすい製品を移動させるのはナンセンスである。つまり、加工用トマトは産地を選ぶことになる。加工用トマトの用途別の数量推移を農林水産消費安全技術センターより引用する。なお、トマトジュースにはトマトミックスジュースが含まれる。結果を下に示す。

■ トマト加工品生産数量の推移 (単位:トン)
           H18年度    H19年度    H20年度   H21年度   H22年度   H23年度    H24年度
トマト加工品    328,317    302,787    259,182    251,798    255,320    270,882    315,075
トマトケチャップ  123,200    109,589    121,692    113,495    119,938    124,436    119,087
トマトジュース   179,356    169,002    100,168     93,324     99,764    115,305    163,874
その他        25,761     24,196    37,322      44,979     35,618     31,141     32,114


ミックスジュースを含めれば、ケチャップにするかジュースにするかの選択となる。赤いトマトにリコピンが豊富だと宣伝していて、しかも、生食用のピンク系より加工品用の赤系の方がリコピンが豊富となれば、ジュース需要が高まるというものである。なお、ピンク系をジュースにした場合、少しあっさりした味となり、赤系の濃い味わいが好まれるようだ。これを嫌うと生食の方が適する。
健康関係のサイトには怪しげな表現に溢れている。トマトジュースもこの例に逃れられないようだ。スキンケア大学と称するサイトを引用する。

トマトジュースには、真っ赤に熟したトマトが使用されます。それは、ジュースの色を、着色料ではなくトマト本来の色で出すためです。このような理由から、生食用のトマトと加工用トマトの栽培方法も異なります。生食用トマトがビニールハウスで栽培されるのに対し、加工用トマトは太陽を存分に浴びてしっかり熟すよう、外で栽培されます。トマトジュースはこのような完熟トマトから作られるため、生食用のトマトよりも栄養素をたくさん含んでいるのです。


真っ赤なのは種類が違うからなのを理解していない。ジュースにするのに完熟に近いものを用いるが、傷みやすくなるから完熟と呼ぶには少々難がある。栽培方法は、安い加工用には手を掛けられない事情もある。ビニールハウスがまったくないということもないだろう。太陽を存分にあびるのは生食用でもあるから、栄養素が異なることを全面的に支持するのはちょっと困ったことになる。リコピンが高いのは事実だし、その他の問題も当たらずとも遠からずというところかもしれない。
少なくとも、トマトを食べると病気が治ると書けば問題広告だし、トマトを食べると健康的になるも、少し問題がありそうだ。トマトを食べて健康になろうは、勝手にすればで済む。機能性表示食品は二番目に相当するが、この制度の問題点そのものが表れていると感じる。不健康になるのは、栄養バランスが崩れるからである。水や塩のような基本的な物質でも、量の超過、過小があれば不健康になる。米でも、小麦でも同じである。トマトも食べなければ良くないことがあるかもしれないが、他の作物で補うことは可能である。しかし、食べ過ぎれば問題が生じることは確実である。世の中とはそんなものだ。そんなものの中から、強いて機能性表示食品なる呼称を与える価値がどこにあるのか不思議に感じるのである。


大麻を喫うと健康になると、元女優が主張するのからすれば、トマトなど可愛いものか。

2017年3月21日 (火)

稲田防衛相、教育勅語の復活「全く考えず」

稲田朋美防衛相は3月21日の参院外交防衛委員会で、自身が「その精神は取り戻すべきだ」と評価した教育勅語について「戦前のように教育の唯一の根本理念として復活させるべきだとは全く考えていない」と強調した。共産党の井上哲士氏が「重大事態があれば、天皇のために命を投げ出せ」との趣旨も取り戻すべきかと質問したのに答えた。
教育勅語を巡っては、大阪市の学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で園児に暗唱させていた。稲田氏は8日の国会答弁では「教育勅語自体が全く誤っているというのは私は違うと思う」などと発言していた。(日本経済新聞:3月21日)


教育勅語について考える。


教育勅語の問題点は、明治時代に天皇制などしらない国民に、天皇という存在と、それを中心とする道徳制度を広めたということに尽きる。 親孝行しろ、兄弟仲良く、夫婦仲良く、友達は信じ合えなどと、12項目にわたって徳目を掲げる、これも当時としたら当たり前の話である。当たり前の話を強いて広める理由は、当たり前でない天皇を広く知らしめる為であった。悪いことが書いていないと主張する者は、この部分の理解が乏しい。
もう少し分かり易い話にしよう。道徳というのは、法律より上位の概念として考えられる。人を傷付けないのは、法律に罰せられるからではなく、道徳的に行わないということだ。明治の法律は、道徳を法律の下の概念として捉えている。ここにこそ問題があり、戦後処理として、天皇を家長とする国体を否定するのと同時に、教育勅語は廃止された。問題は精神性にはない。

ものを深く考えない性質の稲田朋美は、教育勅語の精神は取り戻すべきだと勘違い発言をするが、周囲の役人から歴史的な位置付けをアドバイスされ、否定する発言に翻ったということである。考えないのだから、変更するのも容易である。グダグダと法律のどの条項に関連するのかと騒ぐを週刊誌に書かれていたが、そんなことをしているようでは大臣の仕事は出来ない。行政官を束ね、その職務の特性から、自らの命の危機も顧みずに、危険に立ち向かう命令を出す立場である。そんな立場の人間が、天皇陛下の為に死ぬのは当然だとする思想に感化されているのなら、自衛官やその家族がおちおち眠れまい。職務を確実に実行するのを求めるという枠をはみ出してはならないし、枠に届かないのも許されないという仕事である。お気軽に北陸の法律家が、私は法律の専門家よ、などと口にして出来る仕事ではない。部下が死ぬことになる命令を下す立場を認識していれば、法律に詳しくなくとも良かろう。この愚かな女は、大臣として無能だが、政治家としての資質に疑いもある。法律家としての能力も知れたものなんだろう。


選挙区で仕事をしないと、次がない。

2017年3月17日 (金)

日産、超小型EVでカーシェア開始 横浜市と共同事業

日産自動車は3月17日、2人乗りの超小型電気自動車(EV)を使ったカーシェアリング事業を横浜市と共同で始めた。市中心部の14カ所からEVを借り、市内の観光などに活用できる。
専用サイト(https://nissan-rentacar.com/choimobi-yokohama/)で会員登録し、使いたい時間の30分前から予約できる。走れるのは横浜市内の一般道のみ。基本料金が200円で、15分ごとに250円かかる。日産は2013年秋から2年間、借りた拠点と別の場所に乗り捨てもできる形で超小型EVによるカーシェアの実験を進めた。今回は借りた場所に返却してもらう形式で、今後2年間、事業を進め、本格的なサービス拡大の可能性を探る。トヨタ自動車もコインパーキング大手のパーク24と組み、超小型EV「i-ROAD(アイロード)」を使ったカーシェア事業に取り組んでいる。(朝日新聞:3月17日)


カーシェアリングについて考える。


カーシェアリングにおけるEVは、小型軽量を目指しているようだ。4人乗りである必要もないから、駐車スペースでも有利で、短距離移動と低料金を成立させるには2人乗りは最適な選択になる。適度に荷物も積めるが、大きな荷物を持ち歩くならタクシーを使うだろうし、お土産物などで少々持ち歩くには不便な状況というのは、想定し得る環境と言える。しかし、自動車メーカがこのようなニッチ市場のレンタカー事業に興味がある訳ではないだろう。自動車と二輪車に関する法制度が、二輪車、軽自動車、普通自動車となっていて、都市部の移動用途に適すると考えられる、小型の自動車が軽自動車カテゴリーになってしまう。都市部では四輪車は車庫証明が必要となことは、i-ROADでもレクサスでも同じである。これでは普及しない。つまり、軽自動車未満のカテゴリーを設定し、新たな市場を喚起する為に、市場があることを国に認めさせる手続きだと理解するのが当たっているようだ。
問題になるのは、免許制度と税金である。二輪にすると税金が安くなるが、これだと圧倒的多数の普通免許では乗れない。四輪にすれば、最小サイズであっても軽自動車扱いになる。ここは、二輪四輪は問わずに、電気自動車の環境性能制限の縛りを掛けて、二人乗りの小型サイズというカテゴリで、自動車免許( 中型以上の二輪免許を加えても良い )で乗れて、税金は中型二輪くらい、車庫証明はサイズにより都市部でも不要としたら良い。電気自動車で野ざらしには出来ないから、違法駐車による社会への迷惑の可能性は低いだろう。二人乗りにするのは、あまり小型にすると、自動車運転に慣れた人には違和感があり、二輪乗りには大きい方向の違和感があるだろうと想像される。i-ROADでは小さすぎる。日産の二人乗りの方が適当だろう。現実には、前後に荷物スペースを設けることが必要だろう。街では衝突がないとはいえない。日産のモデルでサイドが簡易ドアにするのは良くない。デザイナーのスタディーをそのまま当局に提出すれば、安全上の問題を指摘されるのは必定である。

カーシェアリングをするのは、当局が動かないならだろう。そもそも当局は動かないものである。自動車会社が売りたいのなら、様々な活動を通じて社会にアピールし続けるよりない。その先に何か解があるかもしれないし、政治家が動く可能性もある。どうせなら、炭素繊維でも使えば良いのにとさえ思う。新たな挑戦とはそんなものだろう。


自由に移動する価値をアピールしなければ、自動車会社は滅ぶ。

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