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2016年7月28日 (木)

障害者施設襲撃を予告 相模原殺傷の容疑者-2

昨日の続きである。


自治体が経営できないから、福祉法人を作って経営を移したという話をした。自治体が民間になったからといって、経営の超合理化が達成させるという夢物語があるのではない。自治体が持ちきれないくて、利用者やその関係者がつぶしては困ると言う。だから民間で考えてというだけのことである。民間の経営というのは、結局のところ、沢山のボランティアを受け入れること、ボランティアには大学などのインターンシップも含まれる、そして、篤志家から支援を受けるという方法である。自治体だと、篤志家からの支援を受け難い部分が制度上あるのだろう。この国で寄付行為により課税対象が減るという方式が、欧米に比べ整備されていない。税金の配分に個人の思惑が入ることを、この国の制度は嫌うということかもしれない。どっちでも同じところに辿り着くと考えるのは、税金の使い道を決定することが役人の誇りとするところであり、政治家を含めその行為と結果とで出世してきたということからすれば、彼等の価値観を否定することに繋がると想像する。

税金の話を出したのは、容疑者が障害者に使われる税金を、他に有効に使えば良いという趣旨の発言をしているからである。容疑者は税金の有効使用について見識があるようだから、裁判中にでも明らかにしていていって貰いたいと思っている。
具体的に発言を確認してみる。
  [1] 「障害者なんていなくなればいい」
  [2] 「障害者はすべてを不幸にする」
  [3] 「障害者には税金が掛る」
というのがある。文言は違う可能性があるが、内容としては合っているのだろう。なかなか難解な発言である。福祉の専門家には全て否定する人もあったが、それでは何も分からないままである。この発言者は、特殊な思想の持主であるのだろうし、その思想故に上記の結論を導いていると考えてみよう。
[3]は正しそうである。しかし、幼児や子供、老人も税金が掛るから、障害者限定でもない。病気になると健康保険が使われるから、これも広い意味では税金である。ということは程度の問題ということになる。金額が大きいか、継続的に使われるかというところである。
[2]はもう少し難しい。すべてとは何なのだろうか。すべての人ということか。それだと税金が使われると同じになってしまう。本人と家族と、福祉に関係する人と言うことぐらいと推定するのが良さそうだ。
[1] は、本人の希望というのなら論理は閉じそうだが、社会的に良いという可能性も無くはない。崇高な理念なのだろうか。分からない。

障害者がいない方が良いという思いに最初に、そして強烈に受けるのは、障害者の親であろう。自分の子に障害がある事実を受け入れなければならないこと、そして、自分が歳を取った先に対する不安は広く語られているから、いろいろなところで読んでいる。
津久井やまゆり園が出来た頃の話として、障害者の親が、私たちが死んだ後の心配が亡くなったという趣旨の発言をしていたと記憶する。重度の心身障害者施設として画期的であった。実際、長期に渡って入園している利用者がいる。しかし、この志の高さを支える資金は続かなかった。その結果が民間による運営であり、ボランティアの活用である。昨日書いた低賃金も根っ子は同じである。県の職員で待遇するのを、福祉法人の職員とした方が、賃金の差は見かけ上小さくても、福利厚生を含めた総合的な待遇では差があり、それが労務費の上昇になるということである。
容疑者の三つの発言は、障害者家族が心を押しつぶすような大きな力で一度は思ったことであり、そんなことはないのだと跳ね除けた言葉の束に違いない。福祉施設で就業経験のある容疑者のお気軽な言葉を、危険思想だと簡単に片付けてはならない。薬物使用の責任にすることも許さない。心神耗弱など許される筈もない。容疑者の弱いお頭でもわかるようにする手続きを省く訳にはいかない。思慮分別が足らないことを親の責にする歳でもない。じっくり考えて貰おう。容疑者が社会に向って投げつけた刃は、容疑者に向けられねばならない。しかし、簡単に殺してはならない。殺さないのは無駄な税金の使用ではない。二度と愚かな所業を生じせしめない為に必要な学びである。


税金を使うなに賛同する者が表れている。匿名だと言い易いということか。匿名でない政治家の過去の発言を幾つか引いてみよう。
都知事に就任したばかりの1999年9月に石原慎太郎は、障害者施設を訪れた際に下記の発言をした。

  「ああいう人ってのは人格があるのかね」
  「絶対よくならない、自分が誰だか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって……」
  「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う」
  「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」


石原は何でも分かるらしい。ゼウスということか。当時も問題になったが、論理的な質問には感情的に答える政治家である。その感情的か論理的かより、自分がどう見えるかを重視する政治家である。自分より劣ると思えば、価値がないと判定するのだが、自分より上は許さないという御仁でもある。

麻生太郎は2013年1月に政府の社会保障制度改革国民会議で発言している。役職は、副総理兼財務相である。

  「死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない」
  「月に一千数百万円かかるという現実を厚生労働省は一番よく知っている」


同じ会議で、終末期医療に関連して発言している。

  「チューブの人間だって、私は遺書を書いて『そういう必要はない。さっさと死ぬから』と手渡しているが、そういうことができないと死にませんもんね、なかなか」


延命治療の否定とも受け取られかねない発言で、この後コメントを発表し、「適当でない面もあった」と撤回している。
麻生太郎がどんな死生観を持とうと自由である。自分自身の扱い方について、かくありたいと願うことは勝手にすれば良いし、それを自慢したければ好きにすれば良い。財閥のお坊ちゃまには、戯言を聞いてくれる執事のような存在も沢山いることだろう。家庭の中でするか、提灯記者に囲まれてすれば良い種類の事柄である。
このおバカな政治家に思想良心の自由を認めているのは、ものを深く考えられない性質であることを許しているのではない。責任者としてある地位にあり、政策実行を担える立場であるのだから、他人に価値観を押し付けるのを気安くしてはならない。思想良心の自由は個人に限った話で、他人に何かを強制する立場であれば口にしてはならない。それを理性と呼ぶのである。
麻生は最近、90になって老後が心配とか、訳の分からないことを言っている人がテレビに出ていたけど、『お前いつまで生きているつもりだ』と思いながら見ていましたと今年の6月18日に発言している。老人が心配する世の中にしているのは誰なのかと考える知恵は持ち合わせていないようだ。

石原にも麻生にも興味はない。なんなら、75歳になったらどこかの山に篭ることにすると、提案したらどうかと思う。生きることより、金を使わないこと、長生きするより、金を使うこと。いったい金は使って良いのか悪いのか分からないが、都合で判断することということだ。

長生きすることを是としない政治は、破滅に向かうと思うのだが。

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