« 91歳最年長、25歳若手に託す 相模原市議選 | トップページ | 国立大改革、急げ 首相が産業競争力会議で指示 »

2015年4月14日 (火)

福井地裁「現実的で切迫した危険」高浜原発差し止め理由

関西電力高浜原子力発電所3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを認めた福井地裁(樋口英明裁判長)は、決定理由で「基準地震動を超える地震が高浜原発に来ないというのは根拠の乏しい楽観的見通しにすぎず、現実的で切迫した危険がある」と指摘した。 そのうえで、原子力規制委員会の規制基準について「深刻な災害を引き起こす恐れが万が一にもないといえるような厳格な内容を備える必要があるが、基準は緩やかすぎて、適合しても安全性が確保されていない」と判断。事故が起きれば地域住民は取り返しのつかない損害を被る恐れが生じるとして、差し止めの必要性を認めた。(日本経済新聞:4月14日)


運転差し止めの仮処分について考える。


運転再開に賛成している立場の人達は、今回の仮処分に憤っている。反対派は画期的な判決だと喜んでいる。原子力規制委員会の人からすれば、専門的な技術に暗い素人から現実的で切迫した危険があるなどと言われたくないというところだろう。専門家が詳しいのは当然であるが、その有難いお言葉に従っていて福島の原発事故が発生したのである。そのお言葉への信念が欠けているから願いが叶わなかったというなら、規制委員会は宗教法人の申請をした方が良い。事故の発生原因というのは、人の驕りにある。人は技術者かもしれないし、現場のオペレーションに関わる人かもしれない。あるいは、規制、規則を作成している人であるかもしれない。驕りを思い込みと読み換えても良い。こんなことは起きないだろうが、決して起きないに変化するのにそれ程の時間は要らない。
驕りの種は何かと言えば、担当者のプライドである。優秀な人が完成度の高い仕事をすることに誇りを持たない理由はない。しかし、現在は直ちに過去に置き換わる。完成度の高さなど昨日の話に過ぎない。規制を策定することなど昨日の話に決まっているのだから、明日のことを求められても何も出来ない。規制なしか、不便な生活か、どちらも選べないのだから、規制委員会の決定に従えと言ったとしよう。これに対する答えは決まっている。規制なしは受け入れられない。福島の原発事故を二度と起こさない為に必要だ。不便な生活については、どの程度の不便を受け入れるか否かについて国民は意思表示していない。不便は困るという規制委員会の価値観を、国民に押し付けることは許されない。というものである。

とは言っても、原子力規制委員会の仕事は、原子力利用における事故の発生を常に想定し、その防止に最善かつ最大の努力をするというものである。最新の技術で事故発生を抑制する効果的な手法を提案していくより他にない。彼等の役割は正しいし、邁進して貰いたいものである。しかし、現実的で切迫した危険があることを裁判所が証明する仕事をするのではなく、この危険を排除する規制基準を策定し、その蓋然性を示すのが規制委員会の役割なのである。裁判所が偏った判断を示したというには弱い。弱いというのは、福島での原発事故を統括しきれていないからである。安全であると信じていた原発が、大きな事故を引き起こして周囲の生活環境が大きく変化した。この事実を説明する材料が提示されていない。壁を高くして津波への危険性を下げ、発電機を高いところに設置して冷却を継続して、という作業は個別対策としては有効だろうが、本質には手を付けていない。ことの本質は、素人には分からないから専門家に任せておけば良いということである。
東日本大震災のときに、千葉県市原市のコンビナートで火災が発生した。LPG関係の火災であるが、鎮火するまで10日を要した。石油コンビナートでの火災発生の場合、火を消すという行為はなく、燃やし尽くすということで鎮火させるようだ。容器が壊れた石油を回収出来なければ、いつまた火が付くとも限らない。爆発しないよう、類焼しないよう、ゆっくりと燃やす。これなら、纏を持って火災の風下の家の屋根に上がって振り回す江戸の火消とそれほど差が無いように見える。石油だってそれほど安全でもない。

仮処分について高裁で再度判断されることになるだろう。恐らく、高裁では差し止め請求を棄却するだろう。最高裁も当然棄却である。裁判所は政治的な問題に対して判断することを避ける。これは統治行為論を持ち出して、裁判所での判断をしないと決めた砂川事件上告審裁判で決定している。もう半世紀以上前の話である。この国の憲法より、米国との条約が優先するから裁判所は関知しないとも読めるが、裁判所よりに読んで、国家統治の基本に関する高度な政治性が関わる問題は、主権者である国民が判断すべき事柄であると解釈する。とすると、主権者の判断がなされていない原発の再稼働は、稼働させてしまって停止する為の経済的な理由を言い訳にして惰性、正しくはなし崩し的に再稼働に動くことは馴染まないと福井地裁の樋口英明裁判長は判断したとも想像される。

停止するにせよ、再稼働するにせよ、今後の原発の在り方を議論する必要がある。裁判所は判断しないのだろう。政府が良しとして、専門家が良しなら止める理由はないとなる。裁判などその程度のものである。それなら問うてみたい。統治行為論を持ち出す前提の主権者の意思とやらは、国会に適切に展開されているのだろうか。行政国家化してはいないだろうか。


国益を損なう判決とする向きがある。都合が悪いと国益を損なうと称するものである。

« 91歳最年長、25歳若手に託す 相模原市議選 | トップページ | 国立大改革、急げ 首相が産業競争力会議で指示 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 91歳最年長、25歳若手に託す 相模原市議選 | トップページ | 国立大改革、急げ 首相が産業競争力会議で指示 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ