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2015年2月23日 (月)

「フェアレディZ」の片山豊さん死去 元米国日産社長

片山豊さん(かたやま・ゆたか=元日産自動車米国法人社長)が2月19日、心不全で死去、105歳。葬儀は近親者のみで営む予定。日産の米国事業を立ち上げ、1965年から現地法人「米国日産」の初代社長を務めた。69年に発売されたスポーツカー「フェアレディZ」の構想にも携わり、米国では「Zカーの父」とも呼ばれた。日米両国で自動車殿堂入りした。54年に始まった「全日本自動車ショウ」(現東京モーターショー)の開催を呼びかけた。(朝日新聞:2月23日)


Mr. K こと片山豊は戦前の1935年に日産自動車に入社している。米国での日産車の販売に多大な成果を上げた人である。この功績で1998年に自動車殿堂入りしている。北米での日産の躍進を実現した象徴とされる。実際、ダットサン510 (1967-1972:日本名ブルーバード) は北米市場で最初に成功した日本車と言える。ダットサン240Z(1969-1978:日本名フェアレディZ) は、片山がダットサンの北米市場拡販の為に強力なイメージリーダーとなるモデルを求めて、アメリカ市場でのニーズに適合した新しいスポーツカーを要望し開発されたモデルである。また、初の小型ピックアップトラックを米国に紹介してもいる。サービス重視の販売店網を構築し、技術学校で販売店やメカニックにサービスの重要性を指導したということは、その後の日本製品の安定した品質をアピールする基礎に貢献したということだろう。
1970年代以降、オイルショックによるガソリン価格の高騰、排ガス規制、保険料の値上げとスポーツカーに厳しい環境に移っていくが、それ以前のアメリカはスポーツカーにとって天国であった。この豊かな市場を目指して、戦争で疲弊した英国から海を渡っていった。片山がジャガー E-Typeの様なスポーツカーを求めたということである。アメリカにおけるジャガー E-Typeの販売台数推移を下に示す。

■ ジャガー E-Type の米国における販売台数の推移
  Year    OTS     FHC     2+2    S III   V12 Open  V12.2+2   Total
  1961     969     238                                               1,207
  1962    1,794    1,743                                               3,537
  1963    1,486    1,300                                               2,786
  1964    1,292    1,351                                               2,607
  1965    1,498    1,531                                               3,029
  1966    1,802    1,343    1,584                                     4,729
  1967    2,005     846     661                                     3,512
  1968    2,412    1,105    1,650                                     5,167
  1969    3,391    1,702    2,363                                     7,456
  1970    2,898    1,300     951       6                            5,155
  1971      17      16                            89       2,209       2,331
  1972     974    1,347                                               2,321
  1973    1,985     877                                               2,862
  1974    2,313                                                        2,313
  ------------------------------------------------------------------------
  合計    24,836   14,699    7,209     6       89    2,209    49,048

E-Typeの累計販売台数は7万台以上と言われている。上記のアメリカでの累計販売台数は4万9千台であり、アメリカが重要な市場であったことが理解できる。排気量4リットルクラスであるE-Typeに比べ小型のMGの生産台数を確認した。結果を下に示す。

■ MGB、MGC、MGB GT V8のモデル別生産台数
    モデル          Roadster    GT      計       製造期間
  MGB MarkI          115,898    21,835    137,733     1962–1967
  MGB MarkII           31,767    16,943    48,710      1967-1969
  MGB MarkIII          110,643    59,459    170,102     1969-1974
  MGB ラバーバンパー    128,653    27,045   155,698     1974–1980
  MGB小計           386,961   125,282   512,243
  -------------------------------------------------------------------
  MGC                4,544     4,458     9,002     1967–1969
  MGB GT V8              0     2,591     2,591     1973–1976
  C・V8小計            4,544     7,049    11,593
  -------------------------------------------------------------------
  合計台数           391,505   132,331    523,836

MGはジャガーに比べれば英国内の販売台数比率が高いと思われる。1970年頃では年間生産台数は3万台前後というところである。半数が米国に輸出されたとすれば、台数はE-Typeの比ではない。ところで、Z Carの累積販売台数は、1969-1978年のモデルで52万台である。年平均で5万台になる。成功したスポーツカーと呼ばれるだけのことはある。
売れた理由を考えるのに、この当時の自動車の価格を比較してみる。上記の他に、比較にアメリカ車を加えた。英国車は1970年の為替レートの1ポンド=2.4ドルで英国国内価格を換算した。Z Car については固定レートの1ドル360円で国内価格を換算した。結果を下に示す。

■ 1970年頃のZ Carto競合車種の価格比較
  Chevrolet Camaro                 $4,000
  Corvette C2 (1967)                 $4,240
  Corvette C3 (1970)                 $5,300
  Ford Mustang                  $4,100
  MG C             £1,100     $2,640
  Jaguar E-type       £2,000      $4,800
  Datsun Z Car                  $2,300   84万円

アメリカから見て輸入車が安く見えるが、輸送コストや関税が付加されることも予想されるのでもう少し価格は高かったものと思われる。いずれにせよ、Z Carの価格がE-Typeに対する競争力が高いことが分かる。その後発売された240ZGの国内価格は150万円になるし、為替レートは300円/ドルに上がるから差は小さくなるが一定の競争力は維持していたことだろう。

1977年に日産の社長になった石原俊は、グローバル10 (世界の自動車生産における日産のシェアを10%へ引き上る) を掲げ、1980年にはアルファロメオと業務提携してイタリアでの合弁会社を設立、VWと提携しVWサンタナの国内生産を行い、スペインのモトール・イベリカに資本参加している。そして、1984年には英国日産自動車製造を設立している。これらの海外進出は、スペインと英国は現在も続いているが、アルファロメオとVWは失敗と結論して良いものである。加えて、1981年にDATSUNブランドを廃止して、NISSANブランドへ変更して統一する方針を発表している。これも大きな失敗として扱われている。
DATSUNブランドの廃止を、石原が北米での広がりにNISSANという存在が薄くなると勘違いしたという説もあるようだ。常識的には、急速な海外展開を目指すのにブランドの統一が必須と考えたと理解するのが妥当だと思う。日産の歴史の扱いとして、石原の存在を消したいようだが、正も負も等しく歴史として扱ってこそHeritageが生まれるものである。その意味では、この時期の塩路一郎も同様である。英国進出という経営判断に反対する労働組合があった事実から目を背けて企業というブランドの成長はない。アルファロメオ (1910年設立) は戦前は超高級車のブランドであったり、モトール・イベリカはフォードの子会社としての設立は1920年である。日産の設立は1933年、戸畑鋳物株式会社にさかのぼって1910年である。石原の望んだものは Heritage だったかもしれない。ヘンリーフォードが帽子を取る会社は、その頃最もボロ会社であった。現在は少し価値が出ているようなので、買っておけばVWあたりに高く売れただろうが、これは投資家の考えで事業家の考えではない。つまり、石原の投資的な活動はしても、事業実務に展開するに至らなかったということである。
石原が社長になった1977年は、片山が日産を退任した年でもある。当時の日産は事業というより政治に熱心な会社であったのだろう。それはルノーの資本が入った今日でも残っているだろうし、問題があったとされる時代においても、事業を発展させるのに努力する多くの社員がいたこともまた事実である。

新聞報道で、喪主が次男光夫とするものと、妻正子とするものがあった。日産のミスだと思われるが、功績のあるOBの訃報にこの体たらくとは、と無関係ながら見っとも無い話だと思う。官僚的な会社にあるほんの少しの良い部分は確実に捨て去ったようだ。歴史と伝統を捨ててしまえば、金儲けの道具としての組織のみである。それは素晴らしいことだが、それなら利益率は二倍あって当然だと思う。


Love life, love cars.

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