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2014年10月14日 (火)

友人の父親の告別式

先日、友人の父親の告別式に参列した。

父親の遺影を見ていて、おそらく会ったことは一、二回というところだろう。会話した記憶はないが、挨拶くらいはしていたかもしれない。享年82というが、遺影に感じは十年以上前のものだと思った。諸般の事情により、棺に花を入れることをした。近くで見た遺骸は、遺影とは離れたものであった。寝たきりの状態になり二年半、それ以前にも継続的な治療の必要があった病気と聞く。病気療養の重さを感じさせるものであった。ご冥福をお祈りする。


ふと思い出した。亡父が伯父の死去の報を受けて御宅を訪問したときの話である。父が一人で寝ている伯父と平気でいるのを見て、近所の人から怖くはないかと訊かれたという。死んでしまって動かないのだから怖くはないと答えたと聞いた。この回答に思うのは、動いてくれるのなら少しの時間でも良いという思いと、本当に怖いのは葬式からしばらく続くであろう、生きている者たちの争い事の方がよっぽど怖いということである。後者は出来の悪い息子の発想で、正しいのは前者であろう。
少し前に叔母が亡くなったときに同じような状況に私がなった。叔母に恨まれることもあるまいし、恨んで起きてくれるのならそれも良いと思った。その家で先々争い事が起きることは心配しなかった、というより興味がなかったが、亡骸の近くの蝋燭が気になったのでそこに居た。お悔やみに来た人の一部で、叔母さんは良い婿を持ったという声が聞こえた。出しゃばるのは良くないが、じっとして誤解されたことを否定する愚を犯すこともない。本当の婿の方は、こまめに動き過ぎて葬儀社に間違えられていた。こっちが葬儀社に間違えられるのが順番だろうが、葬儀の流れも理解していないのでは無駄に混乱を引き起こすだけである。

現在の葬式など昔に比べればすることはほとんどないと言える。義理があれば通夜に参列する。告別式の場合もあるし、焼き場に行くこともある。どこへ行っても宗教上の作法などほとんど知らないのだから言う通りに動くほかない。つまり、行っただけに留まる。それしかできないということを認識した上で、ただ行ってじっと見送る。人が亡くなることを止めることも、防ぐこともできないのだから、結果を見詰めてじっとしている。宗教的にはもっと違う世界があるのだろうが、そこから離れた世界に暮らす身としては、じっとすることを拠り所にするよりない。

浄土宗の葬式は初めてであったが、驚くほどの違いはなかった。こうして葬式慣れしていくことを良しとしてよいかは判断に迷う。葬式に出くわさない幸福な生活で、物を知らなということは、愛嬌のある無知であると思う。いろいろ知って自慢するタイプのことではないし、詳しくなるのも困ったものではある。


気の利いた仕事は出来ないし、無知を気取る技量もない。結局、正味気の利かなさを貫くことになる。

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