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2012年12月 9日 (日)

投票率の向上

選挙の投票率が低いという。特に若者で顕著だという。投票について考えてみる。


選挙の投票は義務ではないので、投票しない自由があると考えるのが自然に思う。
選ばれる側の都合で考えてみる。衆議院小選挙区を例にとると、法定得票数の規定により、有効得票総数÷6の投票数を獲得して一位になることが必要となる。それを満たさないと当選しない。投票率がいかに低くとも3人程度の候補者から選ばれるのであれば、一位で法定得票数の規定を満たさない場合はないと考えて良さそうだ。
ということは、議員を選ぶ側も、選ばれる側も投票率を上げなければならない理由は特に見当たらない。人気投票の側面は否定し難くあるので、同じ参議院で、128万票を獲得した議員と16万票の議員が同じ待遇であるのに不満は持つかもしれない。衆議院でも事情は同じである。
選挙民側の論理としては、自分の一票で世の中は変わらないというのがある。大きな団体のトップからの指示で動く票は何万票とあるのに、自分の権利の一票ではこれに立ち向かえないと言う論理である。その通りであるのだが、一票を行使しなければ変わらないことに真実を見なければならない。大体この手合いに限って、自分に不都合な法律が制定されると不満を声高に叫ぶものである。権利を放棄して、不満を口にするのは、国の秩序から外れる行為である。それをもってアウトローを名乗ってよい。品性の乏しいアウトローであるが。

選挙で獲得した票数に従って議決権も変化させる方式、つまり、株主総会での株券の様な方式を取れば、上の例の参議院議員は多い方が128万権利あるのに対し、少ない方は16万権利しかないことになる。国民の代表を選ぶ行為には馴染まない気がするが、そう言いたい気持ちも分かる。落選した議員の票はどうするのという話も出るかもしれない。これだと、個別の議案に直接投票する制度に近くなる。議会を構成する体制からどんどん遠くなる。通信が発達した現在ならできることも多いだろうから、民意を問うのに有効だとは思う。国民投票は大変だから、それに代わる調査の位置付けとしてなら考えてみる価値はありそうだ。

投票率の低下が無責任な国民を増やすことに危機感持つとしよう。ひとつの案として、無効票を不信任票として数えて法定得票数を高くすれば、白紙票を投ずることが被選挙人を再度選びなおせるということになるから、政治に関心が乏しい人に投票させるには有効になる。しかし、この方法を取れば被選挙人側は白紙票を増やすのだけは避けたくなるから、投票率を上げたくない行動に動くことになる。これは好ましくない。
選挙人にも被選挙人にも有効な方法を提案する。投票しなかった人の割合、非投票率と呼ぶことにする、に従って、議員を入れ替える制度をつくる。具体的には、70%の投票率、即ち、30%の非投票率であったとすると、当選した議員の30%が抽選により落選となる。30%の不足した議員の代わりは、競争入札によって上位者が議員になれば良い。被選挙人は投票に行ってもらわないと怖くて眠れない状態になる。投票しない傾向を有する有権者は、金で議員になることを許す国民になる。これも怖い話である筈だ。両者にとって投票する方法に力が働く仕組みであるから効果が期待できる。投票券に宝くじを付けるよりましだと信じる。

こんな無茶な選挙制度を話しても仕方ない。立法府のあり方として、適度な人数で構成される議会において、活発な議論をもって法律を制定することを希望する。適切な人数とは、周囲にいる専門家である役人を使って問題解決を目指すことが可能な程度を上限として、少数意見を無視してしまわない程度の議員数を下限とする範囲である。現在の衆議院の議員数は少し多すぎると思うが、半減してしまっては少数意見を無視することになるような気がしている。活発な議論は議員同士や、国民に対しても行われるべきものとして期待する。
政党をひとくくりの投票先にするのに抵抗がある。それは、政党で決定する程度の話なら、どこの政党の案を採用しても結果は時間の差こそあれ大した結果の違いはないと思っている(楽観的過ぎるの指摘は甘んじて受ける)。しかし、党議拘束が掛らないような問題があったときに、議員が党の方針がないと行動できないと言うような判断不能が発生するのは許せない。過去に、臓器の移植に関する法律で党議拘束が解かれている(共産党は審議不十分の対応で結果拘束した対応をした)。このような場合に、分からないでは困る。分からないことを決める為に議員は選ばれている。現在の小選挙区制で選ばれた政党所属の議員は、党への忠誠度は高くても、国民への忠誠度は低いのではないかと思ってしまう。
議員はたった一つのことを達成する為に国会に行きたいで良いと考えている。現在の制度はそうなっていない。そこで、総合的な政策を訴えて国会に進むのなら、訴えた内容は違えてはならない。政党を移ることも、党を統合、分離することも許してはならない。許されるのは辞職することだけである。辞める覚悟で選挙を戦う。結構、カッコいいと思うのだが。


目的と手段の入れ替えは、議事堂の中では許されるようだ。

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